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懇談会資料―2 矢作川の環境について

治水の歴史

1 昔は水害常襲地域であった。
1789年〜1903年の約100年間で18回破堤している。

2 西郷弾正左衛門による築堤
  (1452年〜1455年)

岡崎城の築城と合せ幾条かの川筋であった矢作川を現在の位置にひとまとめにして岡崎市北野町から矢作町にかけて堤防が築かれた。

3 六ツ名堤の築堤(1399年)
現存する文献の中で一番古い治水に関する記録である。 現在の占部川沿いにあった川筋を締切ったと思われる。(百姓仁記17世紀末頃)

4 久後切れ(1882年)
明治15年10月1日、岡崎市久後崎で破堤し、死者43名、浸水戸数2,000戸の被害を生じた。

5 田中吉政により一連堤が築かれた
  (1590年〜1600年)

矢作川をほぼ現在の形に造り上げたのは、1590年〜1600年の間岡崎城主であった田中吉政で、その後は、ひとつに連なった堤防となり洪水を防いだ。(土呂山畑今昔実録)

6 総屋敷替え
江戸時代,矢作川の破堤により度々、水害を受けていた西尾市新村町、高落町、浅井町では高台へ部落総移転が行なわれた。

7 鹿乗川の付替え
  (1835年〜1838年)

1700年頃からの河床上昇により水はけが悪くなった鹿乗川の合流点を、洪積台地を堀り割って約2,500m下流へ付替えた。

8 菱池(岩堰とも云う)の埋立て
  (1883年)

明治17年に作成された資料に面積約63町歩とあり、広田川流域の洪水調節に大きく役立っていたが、明治13年〜16年にかけて埋立てられ水田となった。

9 油ケ淵の締切り
  (根崎堤の築堤1644年)

これまで入江であった油ケ淵を西尾市米津町から碧南市鷲塚町間に堤防を築いて締切り、干拓が行なわれた。





弥生時代の流路
1600年の流路
1600年以降の流路
時代不明の流路
治水工事が行われた区間
山 地
洪積台地
干拓地
旧海地

詳細図(SVG)  詳細図(GIF)

クリックすると、詳細図を表示します。
10 徳川家康の命令による
  矢作川新川の 開削(1895年)

現在の矢作古川との分岐点から西尾市米津町まで1,300mを巾36mで堀り割り現在の川筋ができあがった。

11 弓取川の締切り(1646年)
「古川の川違い」の完成により、これまで古川の本流であった弓取川が締切られた。

12 古川の二重堤
吉良藩が吉良町瀬戸〜岡山間に築いた黄金堤によって、集中することとなった洪水を防ぐため築かれたと云われている。


13 古川の川違い(1645年)
矢作古川を広田川へ合流させる付替え工事が行なわれ、現在の川筋となった。

14 蓮池提
江戸時代に矢作川本川からの氾濫水の流入を防ぐ目的で2,200mに渡って築堤された。

15 吉良上野介によって築かれた黄金堤(1686年)
広田川等の氾濫水が丘陵の間を通って吉良町へ流入するのを防ぐ目的で吉良上野介義央が吉良町瀬戸〜岡山間に長さ182m、高さ4mの堤防を築いた。

16 西尾市花蔵寺部落の輪中堤
花蔵寺部落は矢作古川,広田川,須美川の集る所に位置し常に洪水に襲われていたため,江戸時代に部落を囲う輪中堤が築かれた。 17 妙覚池(?〜1605年)
妙覚池は,すでに幻の池である。矢作川が,岡崎平野を幾筋にも分かれて乱流してきた時代には,その流れが妙覚池にも入り,大水の時の自然調整池としての役目を担っていた。

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