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豊川放水路完成50周年記念シンポジウム > 難航した放水路計画、27年間の長期工事

難航した放水路計画、27年間の長期工事

豊川放水路の計画

 毎年繰り返される洪水の被害に対し、内務省(当時)では大正11年度(1922)から調査を開始し、昭和2年度(1927)には「豊川改修計画」に着手しました。この計画では、氾濫の原因である霞を締め切って連続堤とする一方で、霞に代わる洪水対策として@本川下流部の狭窄部を拡張するA本川から放水路を開削する等が検討されました。この結果、豊橋市内の4.5〜6.0q区間は川幅が狭いものの、人家密集地のため川幅の拡張は困難であることから、本川途中から洪水を放水路で分派する案が練られました。
 昭和10年(1935)、「豊川改修ニ関スル促進建議書」が帝国議会で認可され、昭和12年には16か年の継続事業として豊川放水路工事が計画されました。

着工前に襲った昭和10年、12年の出水
 昭和10年8月29日、四国を横断して姫路付近に上陸した台風は、本州を縦断して三陸沖に抜けました。雨量が比較的多かったことから農作物に大きな被害があり、家屋も1,775戸が浸水しました。被害面積は3,084haで、被害額は13億円(当時)余りとなりました。
 その2年後の昭和12年7月16日、集中的な雨によって大村・小坂井地内は一面の泥海となり、被害面積は3,164ha、家屋浸水1,319戸、被害額は9億6千万円(当時)余りに達しました。これら2回の水害も、昭和13年の放水路工事着手の大きな要因となっています。
比較画像
戦争により6年間の工事中断

 第二次世界大戦の最中、昭和18年12月には前芝村大字加藤新田の用地がすべて整ったことから、昭和19年の新春早々には放水路左岸最下流の築堤並びに河道の掘削に着手するなど、順調な滑り出しを見せていました。しかし、戦局は日増しに悪化の一途をたどり、ついに同年の7月31日をもって工事中止の断が下され、以降、6年間にわたって工事が中断されました。

内水排除対策の検討
 昭和25年度初頭より工事は再開されましたが、放水路開削に伴って行明地先から前芝地先までの地域に新たな問題が起こってきました。低湿地である上に、霞の溢流をうけるこの地域に、放水路堤防が7qにわたって設置された場合の内水対策です。加えて、放水路の工事が進められる中で、どこの霞をいつ締め切るか、あるいは放水路堤防に設置すべき樋門や樋管、水門、排水機場などの検討もありました。
 こうしたことを総合的に検討するための調査の一つとして、本川はもちろんのこと、支川や堤内の各所に数多くの量水標や水位計が設置され、集計されたこれらの調査データが内水対策を始めさまざまな工事の計画に活用されました。
前芝船だまり樋管
前芝船だまり樋管
放水路工事のPR
左岸境界線写真  東海道本線橋梁の下流側に放水路の左岸堤防が仕上がりかけていた頃、車窓からも一目で分かる大きな放水路工事のPR看板が建てられました。何のための工事であるかを、世間一般の人々にも広く知っていいただくことなどを目的として設置した看板でした。この看板ができたことで、地元の人たちにも放水路がどこにできるかなどがよく理解されるようになりました。
 このPR看板は、再補償問題に関わった一部の地元関係者たちにも好評で、「予算獲得には一緒になって頑張りましょう」と態度を軟化させるといった、思わぬ効果ももたらされたと言われています。
伊勢湾台風による工事の見直し

 昭和34年9月の伊勢湾台風は、東海地方に大きな被害をもたらしました。豊川では幸いにも被害が少なかったのですが、伊勢湾台風を契機として豊川放水路計画も大幅な変更が行われました。
 具体的には、土木研究所の模型実験の結果によって分流堰は可動堰に、下流部堤防は高潮堤になりました。また、放水路全川に高水護岸が施工されることとなりました。

昭和40年7月13日の通水式
 昭和40年7月13日、実に27年間の長きにわたった豊川放水路工事も、遂に完成のときを迎えました。「通水式」では来賓を代表して当時の愛知県知事であった桑原幹根氏がスイッチを押し、豊川放水路への通水が開始されました。また、工事の完成を祝う「豊川放水路竣工式」も多数の工事関係者が集まり、華やかに行われました。
昭和39年の分流堰定礎式
昭和39年の分流堰定礎式
昭和40年7月の通水式
昭和40年7月の通水式
昭和40年7月の竣工式
昭和40年7月の竣工式
戦後の建設省直轄三大放水路工事

 豊川放水路は、静岡県の狩野川放水路(昭和40年)と広島市の太田川放水路(昭和42年)と並んで、建設省(現在は国土交通省)によって戦後に完成された「建設省直轄三大放水路工事」と呼ばれています。「直轄」とは“直接に管轄する”という意味で、この場合は“建設省が直接に工事を管轄することで完成させた放水路”ということになります。
 当時の豊川市長であった山本芳雄氏は、“氾濫実に7,230haに及ぶ広大な耕地は、水害を免れ、(略)洪水の恐怖からは解放され、つきない未来の映像に思いをはせることができるようになった“と完成を称えています。

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