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天竜川に橋を架ける

天竜川の昔

流域面積が狭く急勾配の天竜川は、降った雨を急速に集めて鉄砲水を誘発。大量の土砂を伴って狂奔する河流は、下流の平野部に頻繁な洪水を引き起こしていました。

独特な地形が引き起こす頻繁な洪水

諏訪湖を水源地として全長215km、長さは全国で8番目、流域面積が約5,000km2、面積では12番目の天竜川。しかし、独特な地形をしているため、流域周辺に住む人々の生活は度々脅かされてきました。

普通大きな川は、上流が険しく下流が平野部となっているのが一般的ですが、天竜川は中流域が山間部です。両岸に2000m~3000m級の急峻な日本ア ルプスを控えているため、長さ200kmを超える日本河川の中では最も流域面積が狭く、200m進むごとに1m下がるという急な勾配です。深い渓谷を曲がりくねりながら下り、狭い山間を抜け出た河流は、三方ヶ原台地と磐田原台地に挟まれた平野部から海までを網目状に流れ、広々とした河原では砂や小石が溜まってあちこちに砂礫洲ができます。扇頂部の上島と河口の掛塚は、どちらも天竜川が押し出した土砂が堆積してできた中洲です。

そうした地形では、V字谷に豪雨が降ると、水が急速に天竜川に集まり鉄砲水を誘発します。しかも、地質が浸食に弱いため土砂も大量に流され、雨量が多く台風の影響も受けるといういくつもの条件が相まって、頻繁に洪水が起こっていたのです。

『天龍川洪水絵図』
(豊田町・大橋家所蔵、磐田市指定文化財)旧池田村地方庄屋、大橋弥兵衛が描かせた絵図。文政11年(1828)の天竜川洪水の様子を描いたものと言われている。

江戸時代に河道は固定されるようになりましたが、破堤による大災害までは防ぐことができず、元禄から明治に至るまでの約170年間に40回以上もの水害が起こっています。慶応4年には、3ヶ月間も家屋や田畑が浸水するという大災害が起こったこともあります。そのようなことから、人々は天竜川のことを「暴れ天竜」と呼んでいました。

  • 『宮本求馬新居渡舟掛日記天皇御東幸之図』
    静岡県資料 (静岡県立中央図書館所蔵)
  • 『東海名所改正道中記天竜川仮橋 見附』
    3代広重(逓信総合博物館所蔵)
    ※無許可転載禁止

江戸時代までは長い間舟渡しでしたが、明治元年10月 の天皇東幸の際に舟橋が架けられ、わずか2日後には解体されてしまいましたが、特例として天皇の通行後、1日だけ一般人にも通行が許されました。長い歴史 の中で、庶民が何の不自由もなく天竜川を渡ったのはこれが初めてで、人々の脳裏からは決して消えることはなく、思い出深い出来事となりました。その後は、明治7年2月に4つの木橋と舟橋からなる橋、明治11年3月には両岸に架かる1本の天竜橋、ほかにも池田橋や掛塚橋など、地元有志の出資によっていくつかの橋が架けられました。しかし、牙をむいた自然は容赦なく襲いかかり、木橋はそのたびに被害を被り続けてきました。

天竜川の流路が、現在のような形に整備されたのはごく最近で、以前は掛塚には東の大天竜と西の小天竜の2本の川が流れ、その間には中州がありました。明治43~44年、中州の掛塚輪中に東海道線の鉄道の線路が破壊されるほどの大きな水害が起こったのをきっかけに、大正12年頃から本格的な天竜川の改修工事が始まりました。そして昭和19年、分流個所に堤防を築いて東の大天竜を締め切り、河道を1本化してほぼ現在の形となったのです。また、天竜川の豊富な水量にも目をつけ、農業用水や養蚕のほか、昭和に入ってからは泰阜ダム、平岡ダム、佐久間ダムなど水力発電ダムの建設も行われました。

金原明善

幼い頃から洪水の恐ろしさを知っていた明善は、自己の財産をなげうって堤防工事を行い、川の氾濫を治めるため森作りにも励み、世のため人のために働きました。

財産をなげうって治水や森作りに貢献

壮年時代の金原明善
(明善記念館所蔵)

天保3(1832)年、遠江国長上郡安間町(現在の浜松市中央区安間町)に産まれた金原明善は、18歳~37歳の約20年間に大洪水を5回も経験し、洪水の恐ろしさを身を持って知っていました。当時の天竜川は「暴れ天竜」と多くの人々に恐れられ、水害に見舞われるたびに作物は奪われ、しかもその翌年は飢饉に襲われるのが常でした。

慶応4年5月の雨が降り続いた時には、明善は寝食を忘れて水害を防ぐために奔走し、堤防を警戒していましたが、ついに5月19日大洪水となり最悪の事態となってしまいました。

明善は不眠不休の救助活動を続けながら、裁判所に要求して旧幕府の所有林だった磐田郡井戸ヶ谷の山林から工事用資材の伐り出しの認可をとり、浜松藩には難民のための食料を放出させたほか、応急工事が必要な箇所には自分の資金を寄付するなど、率先して復旧作業に努めたのです。この行動が明治政府に認められ、明善は天竜川水防掛に登用され、明治5年には浜松県の天竜川普請専務に、翌年には総取締を任されるようになりました。

さらに明善は、治水事業を目的とする治河協力社を設立。しかし、国による改修費の大幅削減により、明治8(1875)年に自己の財産をなげうって約7kmの堤防工事を行ったのです。翌年には水防に関する一切を任されるようになり、鹿島から掛塚にいたる間の川幅を定め、堤防を改修する位置を決めました。これが堤防改良のはじまりです。

ところが、明善はそれだけでは満足しませんでした。川の氾濫を治めるためには健全な森林を作る必要があるとし、明治19(1886)年、54歳の時、オランダ人の河川技術者リンドウと天竜川上流の森林調査を行い、豊田郡瀬尻村の御料林を借りて植林に着手したのです。雑草を焼き、根を取り除き、岩を火薬で爆破するなどして新開など6ヶ所の苗圃でスギやヒノキ302,800本を育て、同時に新しく造った林道を含め66kmの道を開きました。はじめは彼の行動を非難する人たちも大勢いましたが、明善は少しも気にせず森づくりに励みました。3年かけて育てた苗を自分で担いで登ったり、山小屋に寝泊まりしながら一生懸命に植林をする明善の姿は、次第に人々の心を動かし、多い時には800人もの人々が手伝いに集まったそうです。こうして292万本のスギやヒノキが山で育ち、今では天竜美林と呼ばれるほど全国的にも知られる森となったのです。しかも、明善はこれらの木すべてを国に差し出し、その後も北遠の森だけでなく、伊豆の天城山、富士山麓など県下各地で森作りの指導をするなど、世のため人のために働き続け、多くの人々に尊敬されました。

明善翁、最後の山林視察(明善91歳)
大正12年(1923)6月(明善記念館所蔵)

森作りに捧げた明善の生涯は92歳で幕を閉じましたが、各地の山々に植えられた木々はその後も生長を続け、一部は今でも記念林や学術参考林として残っています。また、明善が最初に植林した佐久間町の森には明善神社が祀られ、彼が産まれた浜松市中央区安間町の家が一般公開されているほか、生家前の金原明善記念館では明善の資料を展示するなど、治水や森作りに貢献した彼の偉業をたたえています。

天竜川の橋

渡船の歴史に終止符が打たれたのは明治7年。自然の猛威と闘いながら橋を架け替え、修繕されてきた木橋は、昭和8年に鉄橋に替わり、国道1号線を支えてきました。

人々の熱意と執念による架橋の成功

江戸時代までは敵に簡単に攻め入られないようにするため、東海道にあるほとんどの川と同様、天竜川も橋を架けずに舟で渡していました。そんな天竜川に初めて舟橋が架けられたのは、明治元年10月の天皇東幸の際。天皇が通行することのみを目的として架けられたため、2日後には解体されてしまいました。

長い渡船の歴史に終止符が打たれたのは、明治7年2月のことでした。この時架設を引き受けた浅野茂平は鈴木謙一郎と連名で、明治6年に浜松県庁へ架橋許可を申請。江戸時代を通して幕府に保護されながら渡船業を営んできた人々に反対されましたが、3ヵ月後に許可が出て、州と州の間に架けられた「4つの木橋」と本流に架けられた「舟橋」からなる最初の橋が完成したのです。橋の総延長は約570m、中州に造られた道路の延長が約600m、合計約1170mを歩いて渡ることが可能となりました。この時、橋の維持費として通行料を徴収していましたが、たび重なる出水で修繕に追われ、経営は苦しいものでした。

徳川慶喜が撮影した明治の天竜橋(茨城新聞社提供 ※転載使用禁止)

その2年後、明治9年の洪水では致命的な被害を受け、 早急に架け替えはされたものの経営困難に陥り、金原明善が設立した治河協力社に譲渡することとなりました。明善は堤防の改修計画を行い、東岸から西岸に至る完全な木橋を架けるための工事に取り掛かり、明治11年3月に完成したのが幅3.6m、長さ約1160mの木橋「天竜橋」です。

やがて、明治15年には池田村でも、天竜川東岸諸村の有力者たちによって天竜橋の上流約1.5kmの地点に橋が架設されました。幅2.7m、長さ765mのこの橋は「池田橋」といい、当初は通行料を徴収して償却できる予定でしたが、ここでも修繕費用がかさんで経営難に陥り、昭和初期にあえなく廃止。一方の天竜橋も、自然の猛威と闘いながらの経営は苦しく、流域の村々によって組織された団体に移管された後、熊谷玉造ら民間の手に委ねられ、細々と修理を重ねながら昭和の初期まで持ちこたえたのです。

天竜橋上流に架けられた池田橋(天竜川文庫所蔵)

やがて迎えた昭和8年6月、自然災害に弱い木橋に替わり、幅7.3m、長さ919.4mの鋼トラス橋「天竜川橋」が完成。同時に、それまで有料だった橋が無料で渡れるようになり、東西交通の大動脈である国道1号線を長い間支え続けました。次に昭和40年8月には、国道1号線の新設に伴い、天竜川橋のすぐ上流に幅14.5m、長さ912mの「新天竜川橋」が架設されました。この時から、天竜川橋は県道(旧国道1号)に架かる橋として役目を果たしています。さらに昭和48年4月には、それまで2車線だった新天竜川橋は4車線へと拡幅されました。

  • 天竜川橋(東海道 川を渡る道より転載)
  • 昭和初期の天竜橋と後方天龍川橋(天竜川文庫所蔵)

ところが、近年に入ると新天竜川橋付近の国道1号線の交通量が増え、結果慢性的な渋滞を引き起こすようになりました。このため、平成11年度から新天竜川橋のリフレッシュ工事、及び「新新天竜川橋」の新設工事が行われ、平成19年度には片側4車線、計8車線の大動脈として生まれ変わります。また、今までは無かった歩道も設置され、歩行者や自転車の安全も確保されるようになります。

  • 空から見た現在の天竜川橋付近
  • 天龍川橋側面図(東海道 川を渡る道より転載)