ふじあざみ 第41号(3)

 
富士山に暮らす/人々の暮らしを支えている公共事業 江戸時代の初期、芦ノ湖を源として箱根外輪山を掘抜き、黄瀬川に水を引き入れてから300年余りもの間、休むことなく現在も流れ続ける深良用水。この用水無くして私たちの現在の生活はなかったと言っても過言ではありません。
江戸時代から連綿と流れ続ける深良(ふから)用水
■命の水を導いた先人の偉業
 江戸時代、深良村の名主、大庭源之丞は箱根外輪山に隧道を掘って貫き、箱根西側一帯に水を引いて新田を開発しようという、全国でもまれにみる壮大な計画を立てました。そして土木事業に知識と経験の深い江戸の元締、友野与右衛門に工事を依頼、寛文六年(1666)工事に着手し、3年半の年月を費やし、寛文十年の春1280m余りの深良隧道が完成。芦ノ湖の水が箱根外輪山を流れ下りました。山を下った湖水は、一旦黄瀬川に合流し、両岸の村々に配水されました。これにより富士山南東側の裾野一帯が潤され、数百ヘクタールに及ぶ畑地が水田となり、原野も新田に開発され、農民は大いに潤い、活気にみなぎったのです。私達の祖先は、この水によって生きてきました。それは農業用水としてだけではありません。深良用水を起点に縦横に小川が作られ、朝起きるとこの小川で顔を洗い、米をとぎ、洗濯をし、風呂の水を汲み、また弛みなく流れる水は防火用水として集落を守るなど、まさにこの水無くして生活は成り立たなかったのです。深良用水工事で働いた人数はのべ約83万人余。工事費は現在に換算すると50億とも60億とも言われる、当時としては日本一の大土木工事でした。過去、現在、未来と、私たちの生活を支えている深良用水。先人の優れた知恵と働きに対して、深く感謝の念を抱かずにはいられません。
〈参考/静岡県芦湖水利用組合編:鈴木強著「深良用水に感謝しよう」〉
300年以上前から現在まで流れ続ける深良用水 (裾野市)
300年以上前から現在まで流れ続ける深良用水 (裾野市)
 
富士山に寄せる想い
過酷な富士山に挑み、走りつづける男たち
 
 毎年8月に行われる「富士登山駅伝競走」は、御殿場市陸上競技場をスタートし、富士山頂を折り返し、再び御殿場市陸上競技場に戻る46.37km、標高差3,199mのハードコースを1チーム6名で11区間にわたりタスキをつないでゆく過酷なレースです。体力の限界を超え、傷付きながら栄光のタスキをつなぐ選手たちの姿は、毎回感動のドラマを生み出しています。今回は、この駅伝競走に23回の出場を誇る「陸上自衛隊 板妻駐屯地 第34普通科連隊」より、監督兼選手の磯部昇氏、コーチ兼選手の出口貴士氏、選手の志村知之氏の3名の方々にお話をうかがい、富士山や駅伝競走に対する想いを語っていただきました。
たすきを繋ぐ 救護にあたる自衛隊員

■トレーニングは自分との闘い
 「陸上自衛隊 板妻駐屯地 第34普通科連隊」は出場回数23回、最高順位は平成6年の第3位、最高タイムは平成13年の3時間47分14秒という成績を誇ります。年々レベルの上がる登山駅伝で好成績を維持することは並み大抵ではないと言います。「トレーニングは自衛隊の通常の訓練とは別に早朝や勤務終了後に行います。休日に自主的にトレーニングする者もいます。ストレッチ、ジョギング、ウェイトトレーニングのほか、坂に慣れるため、登山道でも走ります。7月の山開き後には、高地に慣れるため、赤岩8合目で1泊2日の合宿訓練も行います。」と語る磯部監督。トレーニングだけでもこれだけハードなのです。出口コーチは「富士山の天候は変わりやすく過酷です。合宿訓練のとき、麓では気温も天候も穏やかだったので、軽装で登ったのですが、山頂付近では吹雪きのようで、体が冷えてしまい、毛布にくるまって、体が暖まるまで下山できないこともありました。」と自らの体験を語ってくれました。

■登山駅伝と富士山への想い
 山梨県出身の志村選手は「自分はもともと登山が好きで、山梨の実家から望める山々を制覇したほどです。富士山には友人を誘って何度も登っています。いつも皆の世話役みたいになってしまって大変なんですが、友人達が喜んで、また登りたいと言ってくれるととても嬉しいんです。」と笑顔で語ってくれました。さらに「板妻に来たとき、山梨側から見る富士山とずいぶん形が違うんだなと思いました。富士山は見る方向からも違う表情を見せてくれる。登る道も沢山あるが、頂上はひとつなんだと思うと、なにか人生に通じるものがあるようにも感じます。」と、富士山への想いが伝わるコメントも。「この駐屯地では、いつも眼前に富士山が望めます。富士山の雄大さを毎日肌で感じながら、走るときは過酷さを痛感する…それが自分たちにとっての富士山の魅力でもあります。」と語る磯部監督。三重県出身の出口コーチはこう付け加えます。「初めて富士山を見たときは、その美しさに息を呑みました。毎日見ていると慣れてしまうこともありますが、帰省したり出張から帰ってあらためて富士山を見ると、またその美しさに魅了されてしまいます。その度に初心にかえる気がするんです。」

■過酷さゆえの数々のドラマ
 毎回様々なドラマを生み出す登山駅伝ですが、特に忘れられない出来事は平成9年のこと。全11区の中でも特にきついと言われる第3区を走りぬいた畑中貴光選手は脱水症状に陥り、棄権を説得されましたが聞き入れず、もうろうとする意識の中ではうようにレースを続け、強靱な精神力でついにタスキをつないだのです。「富士登山駅伝は、走る区間によって条件がまったく違います。夏の熱くて硬いアスファルト、火山灰の砂地、また昇りと下り、山頂と麓の気温の差など、どの区間でもそれぞれの過酷さがあるんです。」とは磯部監督の談。志村氏が続けます。「自分も経験がありますが、コースの条件や過酷さから、足がマメだらけになることもあり、マメがつぶれて、血だらけで走った思い出もあります。」選手たちの強靱な肉体と精神力の強さを、お話を伺って痛感しました。

■これからも富士山に挑み続ける
 今年41歳を迎える磯部監督。いつまで走り続けるのか伺ったところ、「いつまで走るとか、いつやめるとかは考えていません。若い選手が育ってくれれば、自然にやめることになるでしょう(笑)。」と、若手の出口コーチ、志村選手にはちょっと耳の痛いコメントが。志村選手は「監督には監督業に専念していただけるように私たち若手が一丸となって頑張らねばと思います。」と答え、出口コーチは「今回初めてコーチという大役をいただき身の引き締まる思いです。皆の手本になるように頑張らなければと思っています。」と意気込みを語られました。最後に磯部監督が付け加えます。「板妻駐屯地は駅伝では120名を超える人員で救護や通信など、全面的に協力体制をとっています。こういった活動からも皆様に富士山の環境に関心を持っていただいたり、自衛隊の活動をアピールできたらと思っています。さらに、このような活動一つひとつが災害など有事の際に皆様のお役に立てる原動力になるのだと思っています。そのためにも今年も上位、いえ、優勝を目指して頑張ります!」と、力強いコメントをいただきました。
■プロフィール
磯部 昇(いそべ のぼる)氏 写真中央
 昭和37年静岡県生まれ。本部管理中隊所属。入隊22年。
出口 貴士(でぐち たかし)氏 写真右
 昭和50年三重県生まれ。第5中隊所属。入隊7年。
志村 知之(しむら ともゆき)氏 写真左
 昭和51年山梨県生まれ。第2中隊所属。入隊8年。