ふじあざみ 第40号(3)

 
富士山に暮らす 富士山が生み出す豊富で良質な地下水を源とする富士山麓の河川は、古くから山麓の人々の生活用水、農業用水として利用されてきました。それらをより効率よく利用するため、人々はさらに用水路を整備し、集落を形成してきたのです。
人々の暮らしを支えている公共事業
■富士山麓の用水開拓
 富士山麓は水の豊かなところというイメージがありますが、湧水地区は別にして、表流水の無い地域では、生活や農業のために用水路を造る必要がありました。江戸時代に開削された用水路の多くは、富士山の湧水を水源としています。上流で引いた水はそこからさらに大小の用水路を通り、水田などを潤しながら、最終的に海へ流れるように造られていました。
 富士宮市の北山用水は、徳川家康の命により開かれたと伝えられています。芝川の水を横手沢から取り入れ、約8kmの用水路を通り、荒地を水田に変え、生活用水も豊かに使えるようになりました。用水途中の大沢川には埋樋を造り、また掛樋も架けるなど、創意と工夫に満ちた工事であったようです。このように先人が築いた用水路は今も豊かに流れているところが各地に残り、私たちの生活の一部となっています。
今も豊かに流れる北山用水(富士宮市)
今も豊かに流れる北山用水
(富士宮市)
 
富士山に寄せる想い
富士山と共に歩んだ我が人生に悔いなし。

元 富士山測候所所長 平井 泰世 氏
■あこがれの富士山
 私が富士山にあこがれ、いつの日かそこで働きたいと思ったきっかけは、新田次郎の小説「蒼氷」との出会いからでした。測候所職員が主人公の、この作品を読んでから、私の人生の目標が決まったと言っても過言ではありません。その後、私は気象庁に入り、伊豆大島測候所、東京管区気象台の技術課等の勤務を経て、昭和31年4月、ついにあこがれの地、富士山頂勤務を実現させたのでした。
 意外にも、この時まで私は雪の上というものを歩いたことがなく、ましてや富士山に登ることも初めてでした。初めての富士山の環境は、私の想像をはるかに絶するもので、薄い空気による高山病や、低い温度と気圧、極度の乾燥による健康管理の難しさ、そして強風と山頂独特の地形ゆえの危険と隣り合わせの生活を思い知らされました。
■山頂の象徴 富士山レーダー
 高い山の山頂での気象観測は、高層気象観測に準ずるもので、風船のように1回限りの観測と異なり、常時観測が可能で、刻々と変化する気象データが得られます。特に富士山頂での観測は、昭和39年に設置された富士山レーダーにより、それまで死角とされてきた、南から北上してくる台風の監視役としての役割を担ってきました。
 富士山レーダーが設置されてから、それまで木造だった庁舎が、りっぱな金属製になり、山頂での生活は一変しました。炭による暖房だったのが、電気による全館暖房となり、天国のように思えました。
 天気の良い日には山麓の街からもはっきりと確認できるこのレーダードームはその後、富士山測候所の象徴となりましたが、私たち山頂で働く者たちにとっても、山頂に来るたびにこのドームを見て「今自分は山頂にいるんだ」という実感を沸かせてくれる存在となりました。それだけに、平成11年に富士山レーダーが撤去された時は感慨深く、寂しい気持ちになりました。

富士山レーダー 富士山頂

■富士山で働く人々
 これまでに富士山頂で働いた方々は延べ500名にも上ります。内、炊事等の担当として、女性も十数名おります。
 山頂勤務は登る前からの健康管理が大切です。特に冬の富士山は、登るだけでも8~10時間を要し、強い風や吹雪きなど、厳しい条件の中、登らなければならないこともあります。しかし、これが私たちにとっての「通勤」なのです。
 山頂には医師もおらず、健康管理も含めて毎日が緊張の連続です。一歩外に出ると、強い風と不安定な地形により体が飛ばされ、凍った硬い地面に叩きつけられることもあります。これによりケガを負った職員は数えきれず、不幸にも亡くなられた方も現在までに4名おられます。この様な状況の中で、私も登るたびに「もうやめよう」という思いが頭をよぎりましたが、降りてくるとまた登る時が楽しみになってしまうという、不思議な感情が常であり、その繰り返しで20年もの間登り続けていたように思います。
■不思議で美しい山頂の生活
 山頂の生活は厳しいものばかりではありません。山頂でしか体験できない美しい景色や不思議な感覚は今でも忘れることができません。「笠雲」をご存知でしょうか。山頂をすっぽりと覆う、まさに笠のような雲です。この雲が山頂にかかると、翌日は雨になるとよく言われますが、この笠雲がかかっている時に山頂に立つと、まさに巨大なお碗を伏せた中に自分がいるような、なんとも言えない不思議な感覚が味わえます。また、最近では大気の汚れからあまり遠望が望めなくなりましたが、天気がよく、空気が澄んで視界がよい時は、北アルプスをはじめ、南アルプス、木曽御岳、日光・尾瀬、伊豆七島など、中部地方の山脈はほぼ全て肉眼で見ることができます。まさに絶景といったところでしょうか。こんな体験が、私を20年も山頂へ通わせた魅力のひとつだったのかもしれません。
■富士山に思いを馳せる
 山頂での生活は過酷で、仕事は地味なものでした。しかし、誰かがやらなければならないことです。富士山レーダーも取りはずされ、台風の監視はその役目を気象衛星に譲ることになりましたが、富士山頂での観測は現在も続けられ、山頂の気象データは地上の天気予報の重要な情報となっており、殊に日本上空を飛ぶ航空機のパイロットたちにとってなくてはならないものです。
 私は昭和59年を最後に山頂勤務をリタイヤしましたが、それまでトータルで68回山頂に登り、滞在日数は延べ1,500日を超えました。今思うことは、最後まで富士山とかかわることができて、本当に幸せだったということです。富士山に登ることのなくなった現在でも、富士山を「眺める」対象として見ることができない自分がいます。様々な辛く苦しい体験、怖い体験からか、富士山を眺めたくない時もあります。しかし、最近になって、たまに近くで富士山を見たくなることがあります。ほんの少しずつですが、一般の人たちと同じように、富士山を「眺める」対象として見ることが出来るようになったのかも知れませんが、それもなんとなく寂しく感じてしまいます。
 富士山に登り続けて20年余、気象の仕事自体も自分に合っていたのかも知れませんが、本当に楽しい仕事を、富士山と共にしてこられたのは、何ものにも変え難い幸せだったと、今振り返って実感しています。

平井泰世氏 ■平井 泰世(ひらい やすよ)氏 プロフィール
 昭和8年熱海市に生まれる。昭和29年に気象庁職員となり、伊豆大島測候所、東京管区気象台技術課勤務を経て昭和31年4月、初めての富士山頂勤務。昭和59年まで、延べ68回の山頂勤務を経験。

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