富士講と御師
●開祖長谷川角行が人穴で難修行
 古来、富士山は火を司る神霊の宿る山として崇められてきた「遥拝(ようはい)の山」でしたが、鎌倉時代には、山岳修験者や庶民の富士信仰が結びついて、入山(登山)修行を行う「登拝の山」へと性格を変化させています。やがて室町時代に入ると、富士信仰はさらに盛んになり、江戸時代になると人々は「富士講」を結成し、組織的に富士山参詣を行うようになりました。
 
富士講の開祖といわれる長谷川角行は九州長崎の人で、富士の人穴で千日間立ち行の末に悟りを開いたといわれ、さらに数々の難行苦行を行い、庶民の信仰を一身に集めました。そして富士山登山百数十回、断食300日などの苦行を成し遂げ、106歳のとき人穴で入寂したと伝えられています。
富士山諸人参詣の図
富士山諸人参詣の図
●六代目食行身禄が庶民の心を捉える
 その後江戸中期になると、開祖角行から数えて六代目の食行身禄や村上光清らが登場し、富士講はいよいよ活性化しました。身禄の説くところは、財産や富貴は仮のもので、永遠ではないという思想に貫かれ、その教えは厳しい修行によってのみ体得できるとしました。この身禄の生き方と思想は最初こそ人々の反発を招きますが、しだいに庶民の共感を得、信者を増やしていきました。
 そして身禄は、享保18年(1733)、富士山7合目の鳥帽子岩で断食入定、即身仏となって自己の信仰を貫きました。以来富士講の信者は大いに増え、江戸末期には「江戸八百八講」といわれるほどの講集団の盛況を見ました。
●富士塚というミニ富士で模擬登山
 江戸町には”富士塚”と呼ばれる高さ数mのミニ富士山が多くつくられました。これは入山が禁じられていた女性や、長旅が困難な人たちも富士参詣が出来るようにとつくられたもので、この小さな富士塚登山が江戸の町人の間で大流行したということです。
●富士講とともに生き、富士講を広めた御師
 夏の開山期になると富士講の信者(道者)たちは、富士登山のために河口や吉田へやってきます。この信者たちの世話や指導をしたのが「御師(おし)」と呼ばれる人たちです。御師は富士山及び角行の説く信仰の指導者であり、又宿泊所の提供者であり、富士講を広める普及者としての性格を持っていました。
 
彼らの実際の生活は、経営する宿坊での信者から宿泊料や山役銭(通行料)、おはらい料、お礼、お布施などの収入によって維持されていました。御師と信者は師弟関係にあり、一度縁を結ぶと、信者は他の御師の宿坊に泊まることはありません。御師にとっては、いかに大勢の信者を自分の勢力下に置くかが大切で、シーズンオフになると江戸を中心に「講社まわり」に精を出したということです。
 隆盛を見た富士講とそれにかかわる御師は、文明開化以後の新しい社会の風潮に乗り遅れ、徐々に衰退の一途をたどりました。かつての御師の家は、今は民宿などに生まれ変わり、その家のたたずまいや富士講の歴史を物語る資料や調度品などが、往時の面影を見せています。
古いたたずまいを見せる御師の家
古いたたずまいを見せる御師の家(富士吉田市)