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流域案内

矢作川の豊かさは、母のごとく。
 西三河地方の人々の暮らしを潤してきた矢作川。
 そこから私たちが受けてきた恩恵ははかり知れません。
 人と自然を、ずっと昔からやさしく育ててくれた矢作川。
 川と人とがもっといい関係になるために、21世紀を迎え、なすべきことをあらためて考えたい。
 豊かな暮らしと美しい流れのために。
矢作川 39キロメートル地点 上空写真

矢作川と西三河の歴史
 矢作川は、15世紀中頃までは、自然の流れのままに幾筋もの流れがあり、中下流でたびたび氾濫し、流れを変えていたと言われています。
 記録では、1399年に、今の岡崎市に六名堤が築かれたのが治水事業の始まりで、1452年〜1455年の間に、西郷弾正左衛門が岡崎城の築城にあわせ堤防を築き流れを固定させました。
 その後、徳川家康が1605年に米津清エ門に命じ、下流部の台地を開削し、今の矢作古川から川を付け替え、現在の矢作川の川筋が概ねでき上がりました。
 また、矢作川は明治末期まで川船による舟運に広く利用されてきました。さらに矢作川は江戸時代から農業用水として沿川の農地を潤し、その後、明治中期の明治用水や枝下用水の完成により、「日本のデンマーク」と呼ばれる豊かな農地が拓かれるなど、西三河の発展を支えてきました。
 その後も農業用水、工業用水、水道用水の需要の増加が続き、一方で、昭和34年伊勢湾台風等の大災害が発生したことから、洪水調節と利水を目的とした矢作ダムが建設され、西三河の安全と繁栄に大いに貢献してきました。

地図
矢作川データ
源流 大川入山(1,908m)
流域面積 1,830km2
幹川流路延長 118km
流域内人口 約74万人 (H17基準河川現況調査)
利水市町村人口 約178万人 (H22国勢調査)
年間降水量 1,400〜2,200mm

「美河」とも言われた矢作川、その流れを守るのは私たちです。
 中央アルプス南端に源を発し、矢作川は私たちの街々を潤しながら、三河湾へと流れていきます。
 それは、みんなの努力があってこその、水の脈動。いつまでもこの流れを絶やさないために、私たちがして来たこと、しなければいけないこと。一緒に考えてみましょう。

安全を地域に
 矢作川の本格的な治水は、昭和8年からの国による直轄工事により始まり、在来堤の拡幅、引堤、掘削等が施工され、昭和46年の矢作ダム完成により、沿川の洪水被害は減少し、近年までは大きな洪水は発生していませんでした。ところが、平成12年9月に東海豪雨(岐阜県呼称は「恵南豪雨」)の大雨による洪水では、矢作ダムに計画を越える洪水が流入するとともに、沿川に大きな被害をもたらしました。
 このように、大雨や洪水などの自然災害は、何のまえぶれもなく発生するため、今まで何十年も大丈夫であったから今後も安全と言えるものではありません。
 現在、矢作川流域は急速に都市化が進んでおり、多くの人命と財産を洪水の危険から守る必要性は益々大きくなってきています。
 そのために、水害に強い地域づくりを進めていくとともに、矢作川の改修事業の推進や上流のダム建設等の検討を行い、安全な矢作川にしていく必要があります。
平成12年9月出水(豊田市)
平成12年9月出水(豊田市)

川の恵みを地域に
 矢作川の水は明治、枝下の二大用水をはじめとする各種用水や水力発電等により、大いに西三河の発展に貢献してきました。
 しかしながら、都市化や工業を中心とした産業の発展が益々見込まれる中で、近年、頻繁に渇水が発生し、水不足の状態になってきています。
 今後の地域の発展と、矢作川の水量を確保するためには新たな水源施設や水利用についての検討を進めていく必要があります。

平成6年9月渇水のため水位が下がった矢作ダム (貯水率17%)
平成6年9月
渇水のため水位が下がった矢作ダム (貯水率17%)


川の潤いを地域に
 矢作川は、その流れをたたえて「美河」ともいわれ、西三河の人々のふるさとの川として親しまれてきました。
 高度経済成長期には、一度は極端に悪化した矢作川の水質も、流域一帯となった努力の結果 、現在は回復し、都市を流れる矢作川の広々とした空間が身近なレクリエーションや憩いの場として盛んに利用されています。
 また、矢作川には多くの動植物が生息し、豊かな生態環境を有していることから、これらの生態系にも配慮しながら潤いと親しみのある川づくりを進めていく必要があります。

矢作川左岸(岡崎市)
矢作川左岸(岡崎市)


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