W地点:寺沢川から見た校舎

 

私たちは、子供を青年学級の教室に寝かせ、これからの避難について協議しました。ある先生は、尾根伝いに上の集落に逃げようと提案しました。賛成する人もいましたが、私は反対しました。その理由は、乳飲児にとってこの雨は、致命的なほど激し過ぎること、体育館の玄関は、硬い花崗岩の尾根を削ってつくってあるので、ここは崩れがこないことなどでした。皆は、ここにとどまることを決意しまた。校長は、こんな災害に遭ったのも何かの縁だ、もしここがだめのようであるならあきらめようと言って、いつどこで用意したのかポケット瓶のウイスキーを出して皆に振る舞いました。

そのうちに白々と夜が明けて、あたりがぼんやり見えるようになってきました。一同は雨も小降りになってきたことをみて、助かったと実感して元気が出てきました。しかし、グランド内のおびただしい土砂の山を見てうんざりし、住宅の無事を祈りました。学校は高い所にあるので、下の広町や私たちの家がはっきり見えます。恐る恐る崖のそばまで近づいて見ると、住宅はちゃんとあるではありませんか。皆で手をたたいて喜びました。しかし、次にはどうやってこの学校から抜け出すか、生徒たちの無事も確認しなければならないという心配がありました。あたりをきょろきょろ見ながら、皆苦慮していました。そんなとき、ある先生が山が動いているぞと叫びました。それは広町の裏山でした。確かにずるずると下に移動していました。また、夕べのE地点に行き、その辺りの人々も活動しはじめていたので、危険を告げ、下の家の人たちは避難するように叫びました。皆びっくりして逃げました。その後、その山は動きが収まり完全に止まってしまいました。

そのうちに、私と避難した生徒の父兄がその生徒を捜しにきました。けれども濁流を渡れないので、子供がいるかと対岸から尋ねてきました。私は生徒の父親を見つけ無事を伝えると、ものすごく喜び、向うから見るといかにもものすごい土石流の間にいて、とても無事とは思わなかったとあきれていました。そして、長い梯子を架けて、私たちを誘導してくれました。私たちは、父兄の家に分散して厄介になることにし、生徒の確認を急ぎました。なにしろ凄い災害です。ひたすら生徒の無事を祈って、集落ごとの担任の割り当てに沿って、泥の中を歩いて家庭訪問をしました。その結果、1人脊椎損傷で大怪我をしていましたが、あとはかすり傷ぐらいで死亡者はいませんでした。結局、生田地区では7人死亡しましたが、その原因は皆山崩れで、中でも裏山の崩れが多く、寝ていて土砂に押し出されたケースでした。

崖下に落ちた物置小屋
写真-1 崖下に落ちた物置小屋
バックネット方向からみた校舎正面
写真-2 バックネット方向からみた校舎正面
むき出しになった校舎土台の遠景
写真-3 むき出しになった校舎土台の遠景
むき出しになった校舎土台(1)
写真-4 むき出しになった校舎の土台(1)
むき出しになった校舎の土台(2)
写真-5 むき出しになった校舎の土台(2)
校舎の土台下の礎石
写真-6 校舎の土台下の礎石