子がつづった「三六災害」 当時の文集「伊那谷遺産」に 「人間をころし、家をなくす山はきらいだ」  長野県・伊那谷を中心に豪雨が襲い、百三十六人の死者・行方不明者を出した一九六一(昭和三十六)年の「三六災害」で、子どもたちの被災体験をまとめた文集が「伊那谷遺産」に登録された。編者の碓田栄一さん(六八)=同県箕輪町=は「埋もれていた声が日の目を見た。三六災害を後世に語り継ぐ道しるべになってほしい」と願っている。(札木良)  文集は、三六災害の三年後に完成した「濁流の子−伊那谷災害の記録」。約二百ページで、七十八点の作文を掲載している。鉄筆で原紙に文字を書く謄写版(ガリ版)で五百部作り、子どもたちや図書館に贈った。  同県大鹿村で大西山(一七四一メートル)の山肌が崩落し、五十五人の死亡・行方不明者を出した惨状を間近で見た中学二年の女子生徒は「西山は、西山は、人間をころした。(中略)人間をころし、家をなくす山はきらいだ」と、災害への憎悪を生々しく表現。  父母を亡くした小学六年の男子児童は「ぼくのたよりになるのは、おばあさん一人だった。(中略)もしぼくがもっと大きかったらと思う」と書き、家族を守れなかった悔しさを訴えている。  碓田さんが文集を作ろうと思い立ったのは三六災害の二年後の一九六三年春。災害の記憶が薄らぐことに危機感を持ったのがきっかけだった。  伊那谷の小中学校や自治体に、子どもたちが災害後に書いた作文の提供を依頼。集まった約千点を書き写し、四百字詰め原稿用紙で約三千五百枚の作文の中から七十八点を選んだ。大変な作業だったが、碓田さんは「飾り気のないストレートな言葉で災害の怖さ、悲しさを表現した作文を読むうち、引き込まれていった」  災害時、高校二年だった碓田さんは、高校受験を控え被災した中学三年生のために、同級生たちと集めた参考書など約二百六十冊を贈った。翌年春、被災体験と合格の喜びを伝える作文約五十点が届き、東京の大学に進学後の文集作りにつながったという。  碓田さんの自宅には今も未掲載の約九百三十点の作文が残る。碓田さんはこれから作文を整理し、災害当時の資料を集める予定の天竜川総合学習館「かわらんべ」=同県飯田市=に寄付するという。  三六災害  1961年6月27〜29日の豪雨で河川氾濫、土砂災害などが起き、死者・行方不明者は長野県南部の伊那谷を中心に136人。このうち55人が、大鹿村の大西山崩落による。中川村四徳など、復旧のめどが立たない地区の234戸、1228人が県内外に集団移住した。  伊那谷遺産  天竜川上流河川事務所が今年1月から、先人による治水や河川管理を防災教育などに活用しようと選定。これまでに、江戸時代に造られた用水路や堤防など79件が選ばれた。砂防・治水施設が中心だが、「濁流の子」は後世に三六災害を伝える資料として認められ、遺産の一つに加えられた。