<34>恩田井水(阿智村) 難事業で豊かな田畑に 明治時代、当時の伍和村(現・阿智村伍和)の田畑を潤すために造られた農業用水路。総延長は二十キロに及び、荒れた土地を豊かな農地に変えた。 地形が険しい伍和村は長年、井戸水の確保にさえ苦しんだ。阿智村誌などによると、井水の建設は漢方医の太田宗碩が発案。宗碩の死後、一八九四(明治二七)年に原九右衛門を中心とする組合が結成され、九八年に完成した。 井水は別水系の恩田川から取水する。水は何度も山をくぐり、深い谷を渡って伍和の集落に流れ込む。恩田井水記念碑近くでは、道路上に高架橋井水が設けられていた。 井水が整備された後、伍和村では水田整備が進み、米の収穫量が六割も増えた。崩壊しやすい花こう岩の山に築かれた井水が、山村の暮らしを支えた。 満足な測量器を持たなかった宗碩は、めんぱ(弁当箱)に水を張り、要所要所に張った糸に当てて土地の高低を確認。「必ず水は引ける」と訴えたという。その執念と志を受け継いだ村人が、自らの力で難事業を成し遂げた。(中山道雄)