<19>河原弁天(飯田市下久堅下虎岩)  村境争いで「大岡裁き」 飯田市松尾新井と喬木村伊久間を結ぶ弁天橋下流約百メートルの左岸にあり、「後ろ向き弁天」とも呼ばれている。天竜川の河原の自然石の上に祭られ、川の水位の目安とされてきた。天竜川通船がさかんだった江戸時代、商人たちが建立したという。 一七三八(元文三)年五月の大雨で、河原弁天付近の湾曲した堤防が決壊。本流が右岸の飯田藩島田村に流れ込み、元の川と新しい本流との間に「中島」ができた。 左岸にある美濃高須藩の知久平村など三つの村は「舟が通る川筋が村の境界で、中島は知久平のもの」と主張した。 この村境の争いは、幕府の裁定を受けた。「元文の弁天公事」と呼ばれ、当時寺社奉行だった大岡越前守忠相も加わった。裁きでは「村境は元の川である」とし、三つの村の訴えは退けられた。 地元では「大岡裁き」として伝わり、裁許状の大絵図が飯田市の松尾自治振興センターに保存されている。朱色の鳥居が薄暮にくっきりと浮かんだ。川の流れは穏やかだった。(札木良)