<30>理兵衛堤防(中川村片桐)  親子三代築造受け継ぐ 「暴れ天竜」の異名をとる天竜川の氾濫から集落と農地を守るため、江戸時代に石積みの堤防が築かれた。前沢村(現中川村)の名主だった松村理兵衛忠欣、常邑、忠良が親子三代にわたって手がけたことから「理兵衛堤防」と呼ばれる。 天竜川に前沢川が合流するこの地域では、水害が多発した。松村家は一七五〇(寛延三)年、私財を投じて堤防の築造に着手。大水で何度も決壊しながら、五十八年後の一八〇八(文化五)年に完成した。堤防は全長約百八十メートル。延べ五十万人が働く難工事だった。 堤防の大半は明治以降の洪水で埋没したが、二〇〇六年の水害でコンクリート護岸が決壊するなどしたため、一部が姿を見せた。中川村教育委員会の調査の後、埋め戻しできなかった堤防の一部が近くに移転、復元され、その堅固な構造を見ることができる。 苦しむ人々を救いたいという思いが親から子、孫へと受け継がれ、一時は暴れ天竜を制した。長年の工事を続けた松村家は、多額の借金を抱えたという。(中山道雄)