狩野川の歴史

流域の歴史と人々の暮らし

その昔、南の海からプレートに乗ってやってきたと言われる伊豆半島。その中央部天城山系の山々を水源に、太平洋側の川としてはめずらしく南から北に向かって流れる狩野川は、千年以上も前から人々の暮らしの中心にありました。一方で、下流部に狭窄部を持つという地形的特徴と多雨地帯を流域に抱えることから往古より幾多の洪水を発生させてきました。往時の狩野川が自由奔放に流れていた様は、源頼朝の流刑地「蛭ヶ小島」など、川にまつわる地名が各所に点在することからもうかがい知ることができます。
鎌倉時代には、大きな洪水のたびに流路を変えてきた狩野川の流れを、西に迂回させるという「守山の開削が行われたと伝えられています。
狩野川は農業用水としての利用はもちろん、江戸時代には上流の天城で切り出された木材などを下流の沼津まで運び出す流通路としても利用されました。その一方「満水」と呼ばれる大規模な洪水被害の他、小規模な氾濫が数年に一度は発生し、川を鎮める祭事も盛んに行われ狩野川流域に暮らす人々は洪水の恐ろしさを知りつつ狩野川を利用してきました。明治時代以降も多くの洪水に襲われてきましたが、昭和33年の狩野川台風は、この流域にとって最も大きな意味を持つ災害でした。経済成長が急速に進む時代に起こった災害で、ひとたび河川が暴れれば生活基盤を失い生命をも奪われるということを思い知らされた台風でした。

先人達からの念願であった狩野川放水路が昭和40年に完成し、治水の安全度は著しく向上しました。しかし、洪水被害の経験が少なくなるにつれ、かつての氾濫域であった田方平野を中心にした低地にまで市街化が一気に進行するなど、狩野川と人々との付き合い方の見直しが求められているように思われます。

※「守山の開削」は、『狩野川放水路工事誌(S42)』、『「建設のあゆみ」沼津工事事務所』等にも記述がありますが、史実としての確認はとれていません。

流路の変遷
流路の変遷