今から約180年前、鈴鹿川左岸の汲川原村では、たびかさなる水害に堤防をつくることを訴えてきました。しかし藩主は、堤防をつくると下流にある自分の城が危険になる、という理由でそれを許さず「禁を破った者は打ち首の刑に処す」といいました。
しかし村人達はこの禁を犯して密かに堤防を着工することに決め、しかも女達がこの作業にあたることになりました。男達が全員打ち首になってしまったら困るからです。
村のあんたいのために、夜になると家を抜け出して女達だけの堤防工事が始まりました。その間、幾度となく水害で堤防は流され、完成までに6年もかかりました。その話はすぐに藩主の耳に入り、200余名の女達が打ち首のききにさらされましたが、家老が身を持っていさめたことが藩主の心を動かし、処刑は中止となりました。
そればかりか、決死の治水工事にあたった女達に金一封、絹五反を与え功績をたたえたのでした。その堤防は今でも「女人堤防」と呼ばれているそうです。
大海人皇子が東国への途中、洪水に難渋しているところに駅路鈴をつけた鹿が現れ、その背に乗って川を渡ったという伝説からこの名がついたとされています。