〔被災体験を持つ元建設省職員の方の所見(座談会)〕 桑名市街地の浸水の様子である。揖斐川右岸は地蔵と上の輪で破堤したが、桑名市街地に浸水が広がったのは、揖斐川に面して吉之丸地区に3つほどあった水門の門扉がないことや(川口水門はゲートがなかったと思う)、防水機能が十分でなかったために浸水した影響が大きいと思う。 当時の堤防管理について:当時、堤防は直轄で管理していたが、樋管など排水施設は県の管理、用水施設は土地改良区が施工管理していた。 内堀ブロック直営工場について:内堀ブロック直営工場は、表法面に空張りで施行するプレキャストブロックを制作していた。 吉之丸付近の揖斐川左岸堤の復旧について:当時、桑名城の外郭城壁(石積み)が、左岸堤の一部となっていた。この石積みは堅牢であったが、一部被災した。このため、被災後もこの石積みは極力残し、練り石積みの特殊堤とした。その際、市の教育委員会とも協議し、位置・形状など、元の状態に配慮して復旧したと思う。 事務所のあった場所の桜並木について:当時木曽川下流工事事務所は、右手揖斐川左岸のさらに上流の堤外地側にあった。堤防は現在の住吉神社付近から伊勢大橋上流の樋門のあるあたりまで、約1kmの間、両側に大島桜が植えてあった。諸戸静六氏が植えたという話もあり、幹も太かった。しかし、台風の強風でその多くは倒れ、交通の傷害になった。幸い破堤には至らなかったが、倒れる際、堤防を痛めるので、堤防上に樹木があることはよくないと思った。 <追加コメント> 伊勢湾台風復旧工事誌上巻のP65には、「揖斐川右岸堤の2.0kmより上流部は、桑名漁港、桑名城跡、七里の渡しなどがあり、全く堤防の改修工事は行われていなかった」と記載されている。