かつての木曽川は尾張八流れとも云われていたように多くの派川が発達していました。このため洪水がしばしばこの派川に流れ込んで、尾張国内に水害を起していました。
慶長8年(1603年)、征夷大将軍となった徳川家康は、尾張藩主に九男義直を据え、関東流治水の大家、伊奈備前守忠次に命じて、犬山から弥富に至る12里(約48km) に尾張国を囲む大堤防(御囲堤)を築かせ、すべての派川を締切りました。その目的は、尾張を水害から守るのみではなく、木曽川の流路を固定して木材の流送を容易にすることであり、また、西国からの豊臣勢の侵入に備えるためとも云われています。
この御囲堤が出来たことによって洪水は、木曽川右岸(美濃国側)に氾濫しやすくなり、美濃国側では頻繁に洪水被害を受けることになりました。
明治18年(1885年)、時の愛知県知事勝間田稔は、一宮市光明寺付近の御囲堤に櫻を植えることを提案し、5kmの区間にわたって、彼岸桜と枝垂れ櫻を主体に千本余の櫻が植樹されました。この花色や花形など種々変化に富む桜並木は天然記念物に指定されています。 |

木曽川堤桜の碑

御囲堤・桜堤
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