木津用水は、初代尾張藩主、徳川義直のときに計画され、慶安3年(1650年)に完成した古木津用水路と、寛文2年(1662年)に追加された新木津用水路がありました。
現在は、取水口は、濃尾用水事業による犬山頭首工に統合されていますが、取入れ樋門は、ほぼ往年の位置にあります。
明治初頭では、木曽川河床の変動と樋門の老朽化により木津用水の機能が著しく減退し、時の愛知県令安場保和は、土木課長黒川治愿に命じて、木津用水を改良して、かんがい用水の機能を回復させるとともに、堀川を経由して名古屋港までの舟運路を開くことを計画しました。
黒川治愿は、木津用水樋門まで大量の流水を導水して、樋門前面の河床を安定させる計画としていましたが、大量の流水を分水することに対して、木曽川の抜本的な改修を考えているデ・レーケと意見が対立したようです。
木津用水の完成を顕彰した「木津用水改修之碑」
は、明治18年2月に、春日井市朝宮公園横の木津用水路傍に建立されましたが、この碑は、戦時中に供出されて無くなりました。
現在は、内容の異なる新しい同名の碑が同じ場所に建立されています。 |

木津用水

朝宮公園横から新木津用水を望む
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