千本松原・油島締切堤
千本松原
治水神社と同じく宝暦治水関係の史跡で、治水工事の完成を記念して、薩摩藩士が油島締切提の上に千本の「日向松」の苗を植えたものと伝えられています。それが成長して今では樹齢二百年を越えるこんもりとした松林となっており、千本松原と呼ばれています。明治改修工事によって、宝暦治水当時の油島締切堤は大きく形を変えましたが、締切堤の上に延々と繁茂する千本松原は、水と緑がおりなす、みごとな景観をなし、人々の憩いの場としても親しまれています。
昭和15年7月12日「油島千本松締切堤」として国の史跡として指定されています。
油島締切堤
油島締切堤の附近は、かつて、木曽川と揖斐川が合流し、木曽三川の水害の大きな原因となっていました。このため、古くから木曽三川を木曽川・長良川・揖斐川の三つの川に分離しようとの動きがありました。
宝暦4年(1754年)に着工した宝暦治水は、薩摩藩士の多くの犠牲者と献身的な努力により同5年に竣工しましたが、この油島締切が最大の難工事場所でした。揖斐川へ落ち込む木曽川の水勢は激しく、容易に締切ることが出来ませんでしたが、薩摩藩士の努力によって、一部分が残された堰として完成しました。そうして13年後の明和5年(1768年)の徳島藩などの御手伝普請によって、通船路としての喰違部をもった洗堰として完成しました。この締切堤は、明治20年に着工された改修工事(明治改修)によって、完全な締切堤に改造されました。現在、道路として利用されている部分が明治改修による部分です。
薩摩藩により施工された締切堤には日向松が植えられ、現在は千本松原として親しまれています。なお、喰違堰および洗堰の部分は、千本松原の南端宝暦治水碑より南の松林が途絶えた位置に相当します。
千本松原
木曽三川公園から眺める千本松原
明和年間の油島喰違堰絵図
所在地 : 岐阜県海津市海津町油島