平成15年 6月 5日
中部地方整備局
木曽川上流河川事務所


お 知 ら せ


1.件名: 長州藩士らの明和治水の実像解明について

2.概要 :

 木曽三川の治水は、江戸時代から幕藩体制のもとで、築堤・護岸等の治水努力が営々と展開され、それが基盤となって近代、現代の治水事業へと連結しています。
 江戸時代の治水は、幕府が主導的な役割を果たしてきましたが、中期以降では全国の諸大名(諸藩)に御手伝普請を命じるようになり、木曽三川では16回の御手伝普請が実施されました。
 そのうち宝暦4年(1754)、同5年(1755)の薩摩藩による御手伝普請は、90名近い犠牲者が出たこともあって、その事績が広く調査され、「宝暦治水」としてあまりにも有名です。
 しかし、長州藩と支藩岩国藩等による明和3年(1766)の御手伝普請は、宝暦治水同様1000人を越える藩士が木曽三川の普請現場で工事の進捗にあたった大型普請でありましたが、これまで詳細な調査がなされていませんでした。
 今回、当事務所の委託により、岐阜女子大学地域文化研究所 所長 丸山幸太郎客員教授によって、山口県文書館・岩国市徴古館・名古屋大学図書館・岐阜県歴史資料館・海津町森川勝之助家等に所在する古文書の調査が行われ、別紙のとおり、江戸期における木曽三川の治水の新たな情報を得ることができました。

3.資料:

別紙(長州藩士らの明和治水)
4.解禁: 指定なし
5.配先布: 岐阜県政記者クラブ
6.問い合わせ先:
国土交通省 木曽川上流河川事務所 笹森 伸博
  事業対策官 古谷 健蔵
  調査課長 山口 武志
TEL(058)251−1321




別紙

長州藩士らの明和治水
─明和3年(1766)長州藩等による大型御手伝普請─

1. 明和治水に関する調査の趣旨
   江戸時代、木曽三川の治水には、幕府が主導的な役割を果たしてきたが、中期以降では、全国の諸大名(諸藩)に御手伝普請を命じるようになった。木曽三川では、16回の御手伝普請が実施され、そのうち、宝暦4、5年(1755、56)の薩摩藩の御手伝普請は、宝暦治水として、あまりにも有名である。宝暦治水以降も水害は続き、特に、明和2年(1765)は、水害が多発し、同年、国役普請(地元による普請)で復旧工事を行ったが、対処できなかったため、翌年の明和3年(1766)、幕府は御手伝普請を長州萩藩(毛利家)とその支藩岩国藩(吉川家)及び小浜藩(酒井家)に命じた。
 木曽三川へ多数の藩士が派遣される形で実施された御手伝普請は3回あったが、明和の御手伝普請は、この形で実施された最後の普請であり、この普請の以降(4回目以降)は、幕府が実施した普請の費用を分担するお金御手伝に変革された。この明和の御手伝普請については、昭和44年、長州すなわち山口県出身の故佐藤栄作氏が首相であったとき、長良川河畔の四ツ屋公園(金華橋南詰め)に「長州藩士治水顕彰碑」が建てられたことはあるが、詳細な調査は行われていなかったため、今回、調査を行ったものである。
 長州萩藩、岩国藩等の記録によれば、明和3年の御手伝普請は、1000人を越える藩士が工事の進捗にあたり、大槫川洗堰(200メートルの石積堰)の全面改築のような難工事をも含んでいた大型普請と推定される。また、宝暦治水では89名の犠牲者を出したが、明和の御手伝普請は、犠牲者は出していない。

2. 今回の調査で新たに得られた事項
  長州萩藩、岩国藩等の記録によれば、以下の事項を読みとること、または、推定することができた。

(1) 御手伝方への負担過重抑止
  89名の犠牲者を出した宝暦治水に学んで、幕府方は、発令した普請心得などで 資材高騰厳禁など御手伝方への負担過重を抑制しようという配慮が見られる。
(2) 御手伝方の派遣藩士数は1100人以上
長州宗家萩藩 800人
長州支藩岩国藩 160人
越前小浜藩 140人
(3) 普請箇所は計300箇所以上(追加普請を含む)
  明和2年木曽三川中下流域で発生した水害復旧に幕府は国役普請で対処していた が、対処できず、長州(萩)藩36万石と支藩岩国藩6万石及び小浜藩6万石の御 手伝普請となった。そのため、普請箇所の半数以上は、堤切所・欠所の復旧と補強 工事であった。大工事としては、岩国藩が担当した大槫川洗堰(200メートルの 石積堰)や万寿悪水圦樋の改修、萩藩が分担した牛牧閘門の改修であった。
(4) 難工事の大榑川洗堰改修には岩国の穴生(あのう)石工技術が生かされた
  宝暦治水で築造された大榑川洗堰は、完成してまもない宝暦5年5月の出水で大破し、組合が応急修理を行ったが、幕府は、宝暦8年、分派口側に位置を移動し、改築した。その洗堰も損傷が大きくなったため、明和の御手伝普請で改築された。
 錦帯橋で名高い岩国藩は、橋梁の橋脚、橋台を築造する高度な石積、石敷技術を持つ「穴生(あのう)」と呼ばれる石工技術陣を有していた。その技術が、石積の堰である大榑川洗堰の改築に活用された。
(5) 普請の総額は金25万両以上(〜30万両)所領高 年間通常年支出額への割合
長州宗家 萩藩 20万両 (〜24万両) 36万石 40%ほど
長州支藩岩国藩 4万両   6万石 100%ほど
小浜藩 1万両 ( 〜2万両) 6万石 20%ほど
 総額25万両(〜30万両)は、宝暦治水が40万両とされており、それに次ぐ大型普請であった。
 史料が揃って伝存されている岩国藩では、1年間の総支出額に相当する大出費の ため、大阪・江戸での借財では追い付かず、藩内の有力町人・農民や藩士からも献 金を募り、藩を挙げての対応をしたが、借財返済は江戸時代末になっても終わらな かった、という。

3. 犠牲者なしで完工した理由の考察
  宝暦治水では89名の犠牲者を出したが、明和の御手伝普請は、犠牲者は出していない。その理由として、以下のことがあげられる。
(1) 幕府方により御手伝方への負担過重を抑制する配慮がなされた。
(2) 工事の実際を、専門の土木業者に請け負わせることが多くなされた。
(3) 幕府方のせりたてとそれに応じた御手伝方の昼夜兼行工事により、出水期前に完工できた。即ち、工期の短縮化へ向け、人夫調達に応じた地域の村民や御手伝方の藩士や請負業者の一致協力があった。
(4) 御手伝方の筆頭長州萩藩では、藩政改革により、予備の資金積み立てがあり、必要資金のスムーズな支出ができた。

長州藩御手伝普請及び大榑川位置図(山口県立文書館 所蔵)


大榑川洗堰絵図(岐阜県歴史資料館 所蔵)