木曽川上流河川事務所
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川の記念碑

行幸巌記念碑

行辛巌記念碑昭和2年昭和天皇が巡幸されたのを記念して建てられたものです。日本ラインの岩を砕けて流れる清流や連なる奇岩怪石を展望されたという。

木曽三川分流碑

木曽三川分流碑デ・レーケの行った三川分流工事は、「洪水の害を防止すること」「舟航の便を図ること」「悪水改良を行うこと」を目的とし、宝暦治水の計画を踏襲したもので明治45年に一応完了し、水害の減少に大いに効果を挙げた。その後、この労苦と遺徳を偲び碑を建て後世に伝えている。

御駒返しの碑

御駒返しの碑昭和天皇が昭和2年の秋期陸軍特別大演習が行われた際、御統監のため犬山に御巡幸になり、那裏近くまで駒をお進めになられた。当時木曽川堤は、松並木が延々と続き、この雄大な景観をしばし駒を止めさせ御覧になり駒を返して犬山をお帰りになったので、これを記念して木曽川堤防上に景観が見事な所として石柱を建てたものである。

川の伝説(竜神のほこら)

大正のはじめ、このあたりは木曽川の出水のたびに堤防が決壊し、里人は困りはてていた。御岳行者大教正、岩田春太郎氏は近くの池の竜神が水を呼び、そのために決壊するとの神示を受け、祈濤のすえ竜神を鎮伏して、以後事なきを得たという。現在では伝説として伝わっている。

川の伝説(雀のお宿)

現在は古老が伝えるのみで面影はないが、ここには大正から昭和にかけて聞かされた五大お伽話しの一つである『舌切り雀』の舞台となった竹藪があった。

宮田用水竣工記念碑

宮田用水は、慶長14年に造られたが、河状の変遷により流水の引き入れが困難となり、昭和7年に宮田用水農業水利改良事業を起こし、導入することになった。この工事は木曽川上流改修の附帯工事として認められ、昭和12年に着手し昭和26年に竣工し、1万3千町歩のかんがいが容易となった。

起の人柱観音の碑

起の人柱観音の碑慶長16年(1611)、木曽川本流の御囲築堤工事が難行した時、中之防門徒の篤信の念仏業者興兵衛は、自らすすんで渦まく濁流に身を沈めて人柱となり、堤防の堰止めを成功させた。その菩堤を弔うため、人柱興光観世音菩薩を現地に建立して、永遠に彼の捨て身の大行を後世に伝えようとするものである。

長良川上流改修記念碑

長良川上流改修記念碑岐阜周辺の改修工事では、長良川の分派川の古川・古々川を締め切り、現在の長良川に一本化することが最重要課題であった。流頭部の締め切りは昭和9年に着工し、約538mにおよぶ締め切り本堤を昭和26年に完成させた。改修工事の結果、岐阜市北部一帯は水害の脅威から解放され、さらに約160町歩の広大な河川敷が、耕宅地として利用できることになった。

小崎利準顕彰碑

小崎利準は、明治9年(1876)の府県改地で岐阜の県令に任命され、以降約20年にわたり強力に完成を推進した。明治17年には特別国庫下付金の獲得と、木曽川下流改修工事に国を踏み切らせることに成功し、治水事業を推進した。

鳥羽川・伊自良川・板屋川改修工事竣工記念碑

長良古川分派口締切により、三川の水位を約1.4〜1.5m低下を図る改修であり、これにより悪水の排水は良好となり、大きな効果を上げることとなった。昭和51年以降の激特事業実施により、堤防整備が行われ、業績を伝える碑が2つ建てられている。

石榑敬一顕彰碑

石榑敬一は、大正6年に忠節用水組合取締役頭取に就任。大正10年からのはじまった木曽川上流改修、支派川改修の推進に尽力し、昭和17年から21年までは衆議院議員として同38年からは岐阜県治水会長として岐阜市周辺の治水の推進、農業の振興に一生を捧げた。

長州藩士顕彰碑

御手伝普請とは、徳川時代に公儀が工事を行う際、工事を諸大名に担当させ、命令を受けた大名が費用の一部を負担し、手伝う意味の工事である。長州藩(現山口県)は明和3年(1766)と文政3年(1820)の2回に御手伝普請を命じられている。特に文政の普請は、大地震による堤防崩壊が著しく長州藩は過大な分担金を負い、このため長期にわたり藩の財政が圧迫されたという。

山田省三郎碑

山田省三郎は少年の頃から治水に熱心で、19歳の時には加納藩主に治水の策を建じ堤防修策の急務を説いた。明治11年には有志の人々と治水共同社を設立し、木曽川下流改修の大事業の遂行に貢献した。明治14年には加納輪中水利士功会の議員となり、長良川上流改修、境川改修に尽力した。

長良古川改修記念碑

長良古川改修記念碑大正10年より着手された木曽川上流改修により、長良古川合流点を約1200m下流に付替えるものとし、約2000mの新川開削・築堤等の工事を昭和9年10月に着手。戦争をはさみ順次工事を進行させ昭和27年2月に完成した。

小熊の水防記念碑

小熊の水防記念碑昭和36年6月の『梅雨前線豪雨』により、小熊の堤防が150mにわたり法崩れが生じ、決壊寸前となったが、住民の結束した水防活動で堤防の決壊を未然に防ぐことが出来た。この事績を後世に伝えるために碑が建立された。

治水観音像

昭和51年9月、台風17号に刺激された前線が木曽三川流域に8日間で年間降雨量の半分近くの大雨を降らせた。安八町大森地先の長良川右岸堤防が決壊し安八町・墨俣町は泥海と化した。この際水防作業中に殉職された元善光区長富田智太郎氏の冥福と安八町の治水を永遠に祈願して建てられたものである。

薩摩義士の墓

宝暦治水工事の完成まぢかの時、逆川締め切りの堤防を妨害しようとした無頼漢を斬殺した薩摩義士の三名は、幕府から責任を問われ切腹した。その死をいたんだ清江寺の住職が幕府の禁令を破り、手厚く葬った墓である。

片野萬右衛門の碑

片野萬右衛門の碑片野萬右衛門は、宝暦治水のあとの大榑川の管理にあたったが管理は並たいていではなく、私財を投じ堤防の補強、洗堰の修理を行った。また水害の根絶のためには河川の浚渫が必要であることを感じて、治水共同社を創設して取締役となった。デ・レーケが来岐した折りには、三川分流大槫締め切りなどを陳情、積極的に活動した。

羽島の治水記念碑

羽島の治水記念碑木曽三川の明治改修の際、この地では木曽川・長良川の分流が行われ、明治35年には長良川右岸の屈曲部の矯正のための新川の開削と宅地造成が計画された。この工事には近隣の15歳以上の男女が労力を提供した。このような大事業完成が現在の羽島市の繁栄に繋がっていることを、後世に伝えるために建てられたものである。

伝説『養老物語』

元正天皇の昔、養老の山麓に源丞内という木こりが住んでいました。一生懸命働き年老いた父親を養っていましたが、その日暮らしで老父の好きなお酒までは、とても買い求めることはできませんでした。
 ある日、山で働くあい間に滝の水を眺め「ああ、あの水が酒であったらなぁ」と思っていたら、どこからともなく酒の香りが漂ってきました。あたりを見回すと、近くの石の間から山吹色の水が湧き出て居るではありませんか。手にすくって飲んでみると、これは不思議、本物のお酒だったのです。
 「ありがたや、天からの授かり物のこのお酒は父への贈り物」と、早速持ち帰り老父にすすめました。父は一口飲んでは驚き、二口飲んではひたいをたたき、三口飲んでは手を打って、大喜びしました。
 このことが都の元正天皇まで伝わり、天皇はわざわざこの地に行幸され、源丞内の感心の孝行を、天地の神がおほめになったのだとおっしゃいました。そして、めでたい年を記念して、年号を『養老』と改められたのでした。

粕川改修記念碑

木曽川上流改修がはじまり、支派川改修の国策が決定すると、その先駆として、昭和5年、河積を確保し洪水を防ぐため、揖斐川町市場より合流点に至る約5km間の全川に9カ所の床固を設けるとともに、天端幅5mの堤防を築いた。

竹中三造顕彰碑

竹中三造顕彰碑昭和2年より県議として平野庄橋建設・揖東用水統一に努力し、揖斐川左岸の上流に頭首工を設け、各用水に分水し田畑のかんがい事業に尽力した。

丈六道治水碑

丈六道治水碑神戸町丈六道は北平野悪水の吐口であるため、逆水の被害が大きかった。この対策のため、大正12年には1000mの新堤工事に着手、昭和5年には排水路の開削に着手、昭和8年に完成した。この結果、悪水の排除が良好になり、新しく耕宅地も10町歩確保できた。

杉原傳顕彰碑

杉原傳顕彰碑杉原傳は、大正8年藪川水害予防組合、および三水悪水排除組合を創設し、組合議員となって水害の防止のために、川床の俊渫、護岸の補強などをすすめた。

久富宇三郎頌徳碑

久富宇三郎は、若干29歳で県会議員に当選し、その後5期にわたって歴任、県政の重鎮として地元の開発に尽力した。その間、根尾村・徳山村に通じる県道の整備、旧本巣高等女学校の創設、糸貫川の締切計画などに業績を残した。

佐竹直次郎の碑

明治40年に岐阜県会議員に当選し、昭和3年衆議院議員となる。地元の産業開発および治水に努めた。特に牧田川改修では輪中の人たちと一体となり「牧田川下流改修促進会」を結成し、政府や県当局を動かし、木曽三川改修、牧田川などの支派川改修の着手に貢献した。

揖斐川廃川埋立記念碑

揖斐川呂久地先での度重なる氾濫を防ぐため、木曽三川上流改修工事では、約1,500mの新川を開削することになった。この工事は大正10年に着工、20t機関車を使って築堤敷・廃川敷に土石を運搬し、大正14年、新川に通水することができた。
この工事より水害の脅威は削除された。

菱野川用水記念碑

根尾川の川床が年々低下し、所要水量の確保が困難になったことから、昭和38年、床固兼取水堰を新設し、取水不足を解消した。

牧田川・杭瀬川分流竣工記念碑

大正10年からはじまった木曽川上流改修で、牧田川と杭瀬川の河床高の差による災害を防ぐため背割堤を設け、合流点を約3,400m下流に移動した。

今福の堤防決壊の碑

今福の堤防決壊の碑『今福の堤切れ』といわれているもので、明治29年の二度にわたる大洪水で、美濃の平野は一面に水浸しになり、大垣城まで浸水した。死者49名他の大災害となった。

水門川改修記念碑

水門川改修記念碑大垣輪中の南端では悪水停滞が続き、それを解決するために、昭和8年水門川の改修に着手。俊渫、築堤、用排水路、配水施設など各種事業が実施され昭和25年に中小河川改修に引き継がれた。これにより当地は工業都市として発展が期待されるようになった。

根古地決壊口の碑

根古地決壊口の碑昭和34年8月、前線が台風7号の影響を受け豪雨をもたらした。養老町根古地では牧田川堤防が破堤、1700戸が水没し28日間の長期にわたり湛水した。復旧を急いだが、さらに9月には伊勢湾台風が襲い、必死の水防作業も空しく同一箇所が破堤した。碑はこの事実を後世へ伝えている。

大榑川水門改築記念碑

大榑川は一種の人工河川で、宝暦治水では締切洗堰となり、明治の木曽川下流改修で、悪水を排水する河川となった。記念碑は木曽川上流改修によって、樋門の改修が行われたことを記念したものである。

揖斐川改修工事成功記念碑

揖斐川改修工事成功記念碑この地点は、明治20年からはじまった木曽川下流改修で揖斐川と津屋川とを分離し、導流堤として締め切られた所である。この改修で合流点は約3km下流となり、揖斐川の排水の影響が軽減された。