ホーム道路事業国道1号東海道【東海道小夜の中山】

東海道【東海道小夜の中山】

お陰参りと「ええじゃないか」

 幕末になると、東海道を行き来する人が急増していった。庶民にとってはお陰参りであり、武士にとっては長州征討(せいとう)である。
 お陰参りというのは、特定の年に伊勢神宮への参拝が爆発的に増える現象をいう。子は親に、妻は夫に、奉公人は主人に断りなく家を飛び出し、衣装に趣向をこらしたりして歌い踊りながら集団で参拝した。
 黙って抜け出したから「抜けまいり」ともいった。とくに慶安(けいあん)三年(一六五〇年)、宝永二年(一七〇五年)、明和(めいわ)八年(一七七一年)、天保(てんぽう)元年(一八三〇年)のものが大規模で、熱狂的であったが、慶応(けいおう)三年(一八六七年)に大流行したお陰参りでは各地の神仏のお札が降ってきたので「ええじゃないか」「ええじゃないか」といって踊りだす「ええじゃないか運動」となって爆発した。
 世直しの動きである。いずれにしても多くの人が小夜(さよ)の中山を越えて東海道を行き来した。

豊饒御蔭参之図(東京都立中央図書館蔵)

明治天皇の東幸

 一方、武士たちの世界でも東海道の往来は風雲急を告げる勢いであった。尊王攘夷(そんのうじょうい)を唱える長州(ちょうしゅう)に対し、幕府は征討軍を派遣した。第一次の征討で降伏したが、幕府の意にそわないので第二次征討を行った。このとき十四代将軍家茂(いえもち)も出陣したのであるが、大坂で亡くなってしまった。これによって幕府の力は急速に衰えた。そこで十五代将軍となった慶喜(よしのぶ)は、大政奉還(たいせいほうかん)のため幕臣を率いて京都に上った。しかし翌年には鳥羽伏見(とばふしみ)の戦いが始まり、今度は、朝敵となった将軍を征討するために、東征討が西から東に向かって大挙して攻めだしてきた。有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)を東征軍大総督に、西郷隆盛が先鋒となって江戸城総攻撃をしようとしたのである。
 ちなみに、このとき遠州(えんしゅう)では、神主を中心に遠州報国隊(えんしゅうほうこくたい)が結成され、東征軍を護衛したのだが、日坂(にっさか)の事任(ことのまま)八幡宮の神主もこれに参加した。
 このように武士や町民による大行進が度々行われたため、東海道は多くの人々が行き来してにぎわった。これらの旅や行軍はすべて小夜の中山を越え、道の真ん中にある夜泣き石を避けて通ったものである。

東海道五十三次 大井川船渡之図 国輝

 西郷と勝海舟の妥協によって江戸城が無血開城されると、七月に江戸を東京と変え、九月に慶応から明治に改元して、十月には明治天皇が東京へ向かった。
 このときの工程は、

 三日 掛川宿 泊まり
本陣 沢野弥三左衛門
 四日 千羽(山鼻) 小休み
和泉屋 友八
 同 日坂宿 小休み
片岡金左衛門
 同 小夜の中山(峠) 小休み
小泉屋 小泉忠左衛門
 同 金谷 御野立 (金谷台)
 同 金谷宿 御昼
佐塚佐次右衛門
というものであった。

 これを見てわかるように、掛川(かけがわ)を出発してから、山鼻、日坂宿、中山峠、金谷台と休憩を繰り返し、金谷宿で昼食をとり、藤枝宿で泊まっている。この峠はわずか四キロほどであるが、どれだけ峠越えがたいへんかがわかるだろう。
 これは、荷物を運ぶ駄賃を調べてもそのたいへんさがうかがえる。たとえば掛川(かけがわ)と日坂(にっさか)間は一里二十九町で九十四文であるのに、日坂と金谷(かなや)間は一里二十四町で百四十五文と、距離はほとんど変わらないのに、五十文も高くなっている。
 もっとも、金谷台は景色もよいところであるから、景色を楽しむことも忘れなかったともいえよう。今も石畳を上ったところに明治天皇が休憩したという記念碑が建っている。
 天皇は江戸に着くと、この年すぐに京都に帰ることになる。復路は十二月十三日に藤枝で昼食をとり、島田、金谷、小夜の中山、日坂で小休みをし、掛川で泊まった。
 さらに、明治二年(一八六七年)に再び東京に向かう。三月二十日に掛川で泊まり、二十一日に日坂の大沢富三郎、小夜の中山峠で休み、金谷で昼食をとった。
 明治十一年(一八七八年)の北陸東海巡幸のときにもこの地を通っているが、十一月一日に南西郷村(掛川市)の山崎千三郎宅で泊まり、翌二日に日坂の大沢宅、峠の小泉屋で休み、金谷台で野立(のだて)をし、金谷宿の山田治三郎宅で休んでいる。

  • 明治天皇 明治6年撮影(宮内庁蔵)
  • 明治天皇御駐輦趾

 このように、新しい明治という時代が慌ただしく始まったのである。
 余談であるが、このような天皇の行幸や大名行列のときは、村の人々が一斉に道路掃除をしなくてはならなかった。江戸時代にはどこからどこまでがどの村の受け持ちであると決められていたため、遠い村の人はわざわざ出掛けて行くことが大変だということで、街道近くの人が請け負ってやっていた。明治になっても同じことだった。たとえば、明治六年(一八七一年)に小夜の中山から上菊川の範囲は海老名(あびな)の人が請け負い、星久保、影森、両神口、牛頭、中里、鴨方、源兵衛、下庄内、青池など三十二ヵ村は、佐野新田村の人が請け負っていた。
 さて新政府ができると、その方針はすぐさま各地に伝えられた。その一つが五榜(ごぼう)の掲示(けいじ)という高札である。浜松藩が出した高札が佐野新田村の庄屋であった神谷さん宅に、四枚残っている。八柄鉦(やからがね)とともに貴重な資料である。

高札
五榜の掲示は、明治元年(一八六八年)三月に太政官から出された五枚の立札。五倫の道の勧め、徒党・強訴などの禁止、外国人に対する加害の禁止、キリスト教の禁止、郷村から脱出禁止が述べられ、明治維新政府の封建的体質が示されている。

日本初の有料道路

 明治に入っても、金谷(かなや)と日坂(にっさか)の間を行き来するには、小夜の中山峠を越えることに変わりはなかった。これまで見てきたように、奈良、平安、鎌倉、室町、江戸時代と幾多の人が往来し、まさに歴史の道ではあったが、この険しい峠道を避け、旧国道一号(現在の県道島田・金谷線)のもととなる新しい道路を切り開いた人がいる。その人こそ杉本権蔵であり、近代の国道の歩みを知るうえで、忘れてならない人物である。
 ここでは、この杉本権蔵(すぎもとごんぞう)と日本初の有料道路・中山新道の成り立ちを追いながら、近代の道路の変遷を見てみよう。

 さて、明治になったといっても、そのころの新政府は財政難のため、道路整備や治水事業にまでは手が回らず、各種の事業は民間に委任する他はなかった。そのために政府が出したのが、明治四年(一八七一年)十二月に出された太政官布告(だじょうかんふこく)である。それは、「険路を開き、橋梁を架けるなど、諸般運輸の便利を興した者は、道銭橋銭などの徴収を許可する」というもので、個人の資力でつくった場合、有料道路にして道銭(通行料)を取ってもよいというものである。
 この前年の明治三年(一八七〇年)に、杉本権蔵は、大井川の川越(かわご)し人足とともに小夜の中山の御林(おはやし)というところに入植し、茶園の開墾を手がけていた。そのためには荷車(大八車)が通れるような道をつくることが急務であり、またなんとか峠道を改修し、公衆の通行の便をはかりたいと考えていたのである。彼はこの太政官布告にもとづいて、明治七年に中山新道(なかやましんどう)を計画したが、資金不足のため実現に至らなかった。

杉本権蔵(一八二九~一九〇九)
文政十二年(一八二九年)に金谷町本町で生まれた人で、御林の開墾をはじめ、川越し人足がワラジに砂が入って足が痛くなるのを防ぐために、乳(ち=わらじの側面にある紐を通す輪)をひとつ少なくして水の中で足の裏を曲げると自然に砂が流れるように工夫した「権蔵ワラジ」を発明したことでも知られている。

 ようやく明治十一年(一八七八年)、静岡の富豪・伏見忠七らの資金的な協力を得、県へ出願書を提出。翌明治十二年(一八七九年)には、八月四日付で、内務卿伊藤博文より太政大臣三条実美あてに「中山峠新道開鑿之儀(かいさくのぎ)付伺」が出された。
 それは、金谷と日坂の間の小夜の中山峠は徒来険峻にして、通行人ははなはだ難渋しているが、このたび有志の者から新道の計画願が出せれた。その内容は、工事費のうち七千円を国より借用し、三十一年間通行料を取ってその返済に充てたという趣旨であるが、出資者たちの出資金を償却することだけを考えれば、十二年以内で償却可能なので、国から七千円を支出したいというものである。
 ことは順調に進み、九月四日に工事許可が下り、十月十五日には助成金七千円をもらい、さっそく工事に着手した。

このときの収支計画は次のようなものである。

中山新道開削工事費

総額   三万二千百円四十銭
内助成金 七千円
差し引き 二万五千百円四十銭(この分は発起人たちの出資でまかなわれた)

この費用の償却については、通行者から道銭(通行料)を取ることとする。
 道銭一年間の純益見込高は千八百四十五円十九銭で、二十六年目に出資金全額を償却できるという計画であった。

自日坂宿至金谷宿新道略図(「中山峠新道開鑿之儀二付伺」〔「公文堂」内務省之部〕)
 道路工事といっても、ツルハシ、鍬(くわ)と、土砂を運ぶためのモッコだけで、しかも相手は険峻な山または谷。新道開通を祝って出された「日坂新道開関を祝スル文」には「…霖滞(りんたい)ノ際、崩壊數々(かづかづ)ナリト 雖(いえど)モ精神屈撓(くっとう)セズ、崩崖ヲ捍(ふせ)ギ斫(け)リ…」とあるように、人夫延べ数万人を要した難工事であった。
 こうして翌明治十三年(一八八〇年)五月三十日に中山新道の開通式を行った。
 長さは六・六六キロ。コースは、JR金谷駅の南にある長光寺(ちょうこうじ)の西、坂町から始まる。ここから旧東海道と分かれて金谷隧道(かなやずいどう)(JRのトンネル)の上を横切り、百楽園の前を上って、諏訪原(すわばら)城の東側を北に行き、城の北端で牧ノ原を横断し、牧ノ原斜面を西に下り、大鹿の集落に入る。菊川上流を渡って、不動の滝(仙人滝)の上で菊川と逆川(さかがわ)の分水嶺、今の小夜の中山トンネルの上を切り通しにして峠を越え、「七曲がり」といわれる曲がりくねった逆川(さかがわ)に沿って下り、常現寺(じょうげんじ)の北側より日坂本町(にっさかほんまち)(旧東海道との交点)に出た。

 明治十四年(一八八一年)六月三日県へ「新道開鑿資金償却概算表(しんどうかいさくしきんしょうきゃくがいさんひょう)」を添えて「道銭徴収(どうせんちょうしゅう)」の許可を申請。翌明治十五年一月十五日に道銭徴収の許可が下りたのだが、実際には、明治十三年(一八八〇年)の開通式の翌日から徴収を行っていた。

 料金の徴収所は道銭場(どうせんば)といい、はじめは金谷(かなや)側と日坂(にっさか)側の二ヵ所にあったが、明治十四年に菊川(きくがわ)橋の西の仲田勇宅のところの一ヵ所にした。そのときの料金表(幅一七十、高さ四十、厚さ三センチ)が残っている。

金壱銭弐厘 歩行壱人
金壱銭八厘 空人力車壱輌 但 車夫共
金弐銭 牛馬壱疋
金六厘 分持壱荷 但 米穀負担共準之
金壱銭 荷車壱輌
金壱銭弐厘 指長持壱棹
金参銭八厘 荷牛馬壱疋
金五銭 空馬車壱輌 但 馬丁共
  右 之 通

 明治十三年 五月
       静岡県

 ちなみに、明治十三年当時の日雇労働者の賃金は、一日二十一銭程度であった。

中山新道金谷側入り口

小夜(さよ)の中山トンネル

 大正八年(一九一九年)に道路法が制定されると、静岡県営事業として、金谷町から大井川をはさんで島田町に至る区間の改良工事が大正十三年(一九二四年)から昭和四年(一九二九年)まで行われた。
 大正十五年からは金谷町から日坂村に至る八千二百十三メートルの坂道の改良工事も県と内務省によって始まり、このときつくられたのが、小夜(さよ)の中山隧道(ずいどう)である。
 昭和の時代を迎えると、金融恐慌で多くの銀行で取り付け騒ぎが起きるほど景気は深刻化していた。しかも昭和四年(一九二九年)には、世界恐慌に見舞われ、失業者が続出するありさまであった。特に農村部では農作物の価格の下落により、その惨状はすさまじかった。
 こうしたなか、当時の内務省はこのような時局を救うため、直轄の失業対策事業を興し、昭和六年(一九三一年)には、菊川・日坂町の改良工事が行われた。
 それでも峠を越えるのは相変わらず大変なことであった。とくに「七曲がり」は難所であるため荷車を引いて上ることは容易ではない。そこで大八車を引いて来る人を待ち受けていて、「おっさん押してやるか」と尋ねて、「おい、押せやい」とか「頼むよ」といわれると押してやり、一人一銭くらいずつもらう「後押し」という仕事が生まれた。学校が終わってから六年生が大将となって、三人から五人でアルバイトをしたものだという。
 西園寺公望(さいおんじきんもち)侯爵が自動車で通ったとき、この七曲がりの峠で動かなくなってしまい、金谷まで歩いたとか、自動車に乗る人は日坂で銭をまき、少し走っては銭をまいて人を峠まで誘って車が動かなくなったときには押してもらった、などという話が残っている。
 このように金谷・日坂間の坂道の改良工事は、大正十五年(一九二六年)から県と国とで実施されていたが、これにともなってできたのが小夜(さよ)の中山隧道(ずいどう)である。多くの人が掘り進み、昭和七年(一九三二年)に開通した。
 延長百五十メートル、幅員六・六メートル、高さ四・五メートルである(工費五万七千七百五十二円)。

小夜の中山トンネル。手前が金谷方面、奥が日坂方面。左側に小夜の中山峠を通る旧東海道が見える。

 ちなみに昭和六年(一九三一年)には、日本は満州事変に突入し、翌七年(一九三二年)には五・一五事件が起き、犬養首相が暗殺されるなど、世相は不安な様相を呈し始めていたころであった。
 小夜(さよ)の中山隧道(ずいどう)の開通によって、峠を越える負担は大幅に軽減され、これによって、明治期に個人の力でつくられた中山新道は、国道一号線として形を変えながら日本の大動脈の一端をになうようになったのである。
 その後、小夜(さよ)の中山隧道(ずいどう)は昭和二十九年(一九五四年)に改良され、昭和四十一年(一九六六年)には新トンネル(二百六十五メートル・現在の下り線)も完成し、また昭和四十七年(一九七二年)には現在の上り線のトンネルが完成、これによって上下別線二本のトンネルとなったのである。

  • 昭和34年ころの小夜の中山トンネル
  • 小泉屋の上から見た小夜の中山隊道付近(昭和10年)

日坂(にっさか)から掛川(かけがわ)まで

 日坂(にっさか)から掛川(かけがわ)までの交通はテト馬車であった。
 テトテト 馬車馬車 乗れ乗れ
というようにラッパを吹いて走ったので名付けられたもので、明治四十三年(一九一〇年)に松永倉蔵が始めた。一日五回、日坂(にっさか)小学校の東隣から掛川の喜町まで五、六人乗りの馬車が走っていたが、大正十四年(一九二五年)からはバスになった。バスといっても十二人乗りのフォードで掛川駅まで行くようになった。
 日坂(にっさか)の南側に新たに国道が完成したのは、昭和二十六年(一九五一年)のことである。

  • 国道一号 日坂付近
    (昭和30年ころ)
  • 国道一号 日坂付近
    (昭和34年)
  • 小夜の中山トンネル近くにある小泉屋
    (昭和34年)
日坂の街並み(昭和30年ころ)

 それまでの国道一号線は、金谷方面から掛川に向かう場合、日坂の入り口までで、そこからは日坂宿(にっさかじゅく)の旧東海道につながっていたのである。したがって、当時は、乗用車がすれ違うのがやっとで、昔の日坂宿内の細い道を頻繁に車が行き交い、もちろん舗装もされていなかったから、トラックが軒すれすれに走って、ほこりだけを残していくというありさまであった。
 金谷から日坂までの全区間が舗装されたのは昭和三十四年(一九五九年)であった。

  • 国道一号の舗装工事
    (昭和30年ころ)
  • 国道一号の舗装工事
    (昭和30年ころ)
  • 国道一号の舗装工事
    (昭和30年ころ)

国道一号の混雑

 国道一号は、東京と大阪間を結ぶ東西交通を担う大動脈である。全長約六百八十キロ。なかでも金谷から掛川までの区間は、昭和三十六年(一九六一年)までに改築事業がなされていたが、交通量の増大にともなって渋滞が激しくなり、また日坂峠や切割峠という難所があるため、山間を縫うように走っている幹線道路は、大雨のときの通行規制などによって、著しい交通障害をきたしていた。
 こうした状況を打開するために計画されたのが、金谷、掛川、日坂バイパスである。
狭い国道にトラックなどがひっきりなしに走る。(昭和41年)

金谷バイパス

 日坂(にっさか)峠の掛川側は、昭和四十五年(一九七〇年)当時、一部登板車線などの改良が行われたが、日坂峠の金谷側は昭和初期のまま道路幅員六メートルという峠道で、一日二万六千台とさほど多くはないにもかかわらず、慢性的な交通渋滞という状況であった。これは、とくにトレーラーなどの大型車が多く、切割峠を越すときに速度が落ちると追い越しができないためで、峠を越すのに一時間もかかるというありさまであった。また昼夜の交通量の差がないものこの付近の特徴である。
小夜の中山トンネル付近の金谷バイパス(右側)
金谷から日坂方面を望む

 このため新大井川橋(島田市向谷)から小夜の中山トンネルに至る、延長七キロ区間、四車線の道路を金谷バイパスとして計画したのである。
 昭和四十二年(一九六七年)に着工し、昭和四十六年(一九七一年)一月に新大井川橋を除く区間が、さらにその年の十二月に新大井田川橋がそれぞれ暫定二車線として供用された。
 このうち切割峠の下の牧ノ原第一トンネル(百九十五メートル)、第二トンネル(三百十メートル)、第三トンネル(約五百十メートル)がある。

  • 金谷バイパス菊川付近
  • 牧ノ原高架橋と牧ノ原第三トンネル
    (金谷バイパス)
  • 完成目前の牧ノ原第二トンネル(金谷バイパス)

掛川バイパス

 掛川バイパスは、掛川市八坂で国道一号と分岐し、市街地の北側丘陵山地部を通り、掛川市沢田で再び国道一号に合流する、延長九・九キロの四車線の道路である。
 昭和四十六年(一九七一年)に着手したが、途中昭和四十八年(一九七三年)のオイルショックの影響により大幅に遅れ、昭和五十二年全長九・九キロのうち中央部五・九キロが有料道路として日本道路公団の施工となった。
 そして昭和五十六年(一九八一年)三月に、四車線のうち二車線が暫定供用された。この間十年、費用は百七十億円にのぼった。
掛川バイパス 手前が日坂方面、上が掛川方面。

日坂バイパス

 小夜の中山トンネルから日坂を経て、西は伊達方の手前の塩井川原付近までの国道一号は、急勾配、急カーブが連続する二車線道路であるが、この付近は、地滑り地域でもあるため、雨量によっては通行規制が行われるなど、幹線道路としての機能を充分に果たしていない。このため、すでに供用している島田・金谷バイパスと掛川バイパスを接続して、この地区の交通規制を解除し安全対策を目的として日坂バイパスが計画された。
 区間は、掛川市佐夜鹿から掛川市八坂に至る国道一号の南側、四・三キロである。
 昭和四十七年(一九七二年)から六十一年(一九八六年)にかけて調査が行われ、昭和六十二年(一九八七年)から事業化された。

菊川から日坂方面を望む。手前が金谷方面。

夜泣き石の来歴

 小夜(さよ)の中山といえは、昔から、夜泣き石の伝説で有名である。なぜ、これほど有名になったのか、まず、その来歴(らいれき)をたどってみよう。

行書東海道五十三次 日坂 安藤広重(浜松市美術館蔵)

滝沢馬琴(たきざわばきん)の『石言遺響(せきげんいきょう)』

 久延寺(きゅうえんじ)にある夜泣き石の説明書きには、滝沢馬琴(たきざわばきん)の『石言遺響(せきげんいきょう)』から抜粋したとして、次のように紹介されている。

 その昔、小夜(さよ)の中山に住むお石は、夫の帰りが遅かったため、菊川の里に仕事を探しに出掛け、その帰宅の途中、小夜(さよ)の中山の丸石の所でお腹が痛くなり、松の根元で苦しんでいる所へ轟業右衛門(とどろきごうえもん)が通りかかり、彼女を介抱(かいほう)したとき、懐に金の袋を見つけ、お石を殺して金を奪い取った。
 そのとき、お石は懐妊(かいにん)していたので、傷口より子供が生まれ、お石の魂魄(こんぱく)がそばにあった丸石にのりうつり、夜毎に泣いた。これを夜泣き石という。
 傷口から生まれた子供は音八と名付けられ、久延寺の和尚に飴で育てられ、大和(やまと)の国の刀研(とうけん)師の弟子となった。
 そこへ、轟業右衛門(とどろきごうえもん)が刀研にきたおり、刃こぼれがあるので聞いたところ、「去る十数年前小夜の中山の丸石の付近で妊婦を切り捨てたときに石にあたったのだ」と言ったので、母の仇(かたき)とわかり、名のりをしてめでたく仇討(あだう)ちをした。その後、弘法大師(こうぼうだいし)が久延寺(きゅうえんじ)の観世音を点眼(てんがん)し、夜泣き石の物語を聞き、お石の菩提(ぼだい)の為に丸石に仏名を書いて立ち去ったという。
 (滝沢馬琴の伝説『石言遺響』より抜粋)

  • 東街便覧図略 夜啼石 栗ケ嶽 無間山 部分(名古屋市博物館蔵)
  • 夜啼石の伝説 遠江古蹟図会(西尾市立図書館岩瀬文庫蔵)

 この説明書きに書かれている内容は、必ずしも滝沢馬琴(たきざわばきん)の『石言遺響(せきげんいきょう)』を正確に写したものではないが、その影響を強く受けていることは確かである。
 しかし、夜泣き石の伝説すなわち『石言遺響(せきげんいきょう)』というわけではない。というのは、『石言遺響(せきげんいきょう)』成立以前にも、夜泣き石に関する話があったからである。
 そのいくつかをここに挙げてみることとする。

滝沢馬琴(曲亭馬琴)
一七六七~一八四八。江戸時代後期の戯作者。『椿説弓張月』『南総里見八犬伝』など、生涯に三百数十種の作品を残し、当時から人気のあった読本作家である。
『石言遺響』は馬琴作、蹄斎北馬画による五巻五冊の読本。文化二年(一八〇五年)、小夜の中山伝説を仇討ちものとして、馬琴が脚色しまとめたもの。

『石言遺響(せきげんいきょう)』以前からの伝説

 むかし、西坂(にっさか)の里に、女ありけり。かなやの里に、おやありて、行ける。道にて、ぬす人のために、ころされ侍(はべ)り。その女は、はらミて、此月、子うむべきにて、有けるに、ここの右の方なる山の内に、ある法師の住けるが、あはれがりて、母が腹をさき、子をとりいだして、そだて、その子十五になりける時に、法師かうかうと、物がたりしければ、うちなきて、ほうしにもならず、寺をしのびいでて、池田の宿にゆきて、ある家のつかハれものとなり。田つくり、柴かりて、月日ををくり、立居ねおきに、常に口ずさびて、命なりけりさよの中山と、いひけるを。あるじ聞て、日ごろへて、後にとひけるハ、つねに、いのちなりけりといふ歌を、口ずさぶハ、いかなるゆへぞといふ。この者うちなきて、我ハ腹のうちにて、母にわかれ、父も行方なくなりぬといふ。あるじ、おどろきていはく。はらのうちにて、母をおくれたりとハ、いか成事ぞととへば、わが母ハ、それがしの生れ月にあたりて、人にころされて、むなしくなりけるを。はらをさきてとり出し、そだてられ侍りといふ。あるじのいはく、それは佐夜の中山にての事なり。そのころせしぬす人ハ、となりの家のあるじなり。そのとき、母が身にまとへりし小袖ハ、なになにの色なり。不便(ふびん)なる事ぞかし。かたきをうちなば、われもちからをそへ侍べらんとて、その夜、となりのあるじをうちけり。いのち成りけりといふ歌をとなへて、をやのかたきをうちけり。その子ハ出家して、山にこもり、父母のぼだいをとぶらひ侍り。(中略)佐夜の中山より十町バかりを過て夜啼きの松あり、この松をともして見すれバ。子共の夜なきをとどむるとて。往来の旅人けづり取。きり取ける程に。其松つゐに枯て、今は根バかりに成けり。此道夜ぶかに出べからず、折々あしき事ありといふ。
 (『東海道名所記(とうかいどうめいしょき)』)(傍線は筆者)

 この話は、馬琴(ばきん)の『石言遺響(せきげんいきょう)』より約百四十年ほど前の万治(まんじ)二年(一六五九年)に書かれたものである。
 ちなみにこの中で、母の仇討(あだう)ちに成功する主人公が口ずさむ「命なりけりさよの中山」の歌、は西行(さいぎょう)の「年たけて」の有名な歌のことである。
 ところが、この『東海道名所記(とうかいどうめいしょき)』では、傍線部分にあるように、のちの『石言遺響(せきげんいきょう)』では「石」としているものが、「松」となっている。さらに、「夜泣き松」と妊婦殺傷事件とは、別の話のように取り扱われているのがわかる。
石言遺響

「夜泣き松」あるいは「夜無石」という説

 「夜泣き松」とよばれる松については、東海地方各地にあり、三重県亀山市羽若坂には、次のような伝承がある。

 旧羽若村の東の方の、亀山藩士葉若藤左衛門の旧宅址(あと)にあった松。今は枯れてない。子どもが夜泣きして困ると、この松の樹をけずって燃やし、その火を見せると、すぐに泣き止んだという。
 静岡県田方郡修善寺町にも同じような話が見られる。

 路傍にある。大小二本という。この樹の幹をけずったり、根を取って燃すと、子どもはこの光をつくずく見て、きっと泣き止むものだと信じられている。
(以上二編『東海の伝説』堀田吉雄編著)

小夜中山宵啼碑 曲亭馬琴著 歌川豊廣画(東京都立中央図書館蔵)

 このような話から、夜泣き松は「松」自身が夜に泣くのではなく、子供の夜泣きをやめるためのものだったのだろう。だとすると、なぜ松が、石になったのだろう。金谷町出身の西村白烏が『煙霞綺談(えんかきだん)』(明和(めいわ)七年(一七七〇年))の中で、次のように述べている。

 又佐夜の中山夜啼き石といひはやらせしは、享保の中比(なかごろ)よりの事なり。其始め佐夜の中山久延寺に近き並木の松に古木ありしを、土俗夜泣きの松と呼ぶ、ふるき道中記にも見えたり。彼孕女を殺害せし跡なりといへり。享保の中比雷堕て此松枯たり。其近きあたりに丸石といふて、むかしより従来の真中にあり。憶ふに事任社(ことのままのやしろ)は、加茂長明紀行にも、此中山のうちなるよし見へ侍れば、此石社中の神石なれ共、兵乱の節社地を移し替えし時に便あしければそのままに残し置きたりと見へたり。去によりて何といふ謂もなく、石の形まるきを以て、其まままる石とのみいひならはせしを、夜啼の松枯て後は、此石へ夜なきの名を描(うつ)して、浄瑠璃にも作り出せしより、いよいよ世上に夜啼の名高し。(中略)宝暦九年夏奥州より巡礼同者数十人来り、提たる棒をもって刎ねたれば、なんなくころび出しを、金輪より生出でたる石を、我々が力にて刎起こしたりとて、咄と笑ひて過る。其後元の所へ持来りて、今は自由に転ざるやうに置きたり。然れども居やう、むかしとは方角違いたれども、何の祟もなく、五字の名号も其ままにて、今とても夜啼の石と云。
(『日本随筆大成』所収)

 これが本当だとすると、もともとは「夜泣き松」であったものが、枯れてしまったために、「松」のかわりとして「石」を置いたのだということになる。そして枯れてしまった「松」よりも、その形をかえることない「石」が「夜泣き」の名をついで、浄瑠璃にも取り上げられるようになって、いよいよ有名になったのだという。この浄瑠璃は宝永(ほうえい)七年(一七一〇年)に、大坂・豊竹座にて上演された「佐与中山夜泣石」などのことであろうと思われる。この話は、子供のかわりに石が泣いて助けを求めたとして、大変評判になった。

 また『掛川誌稿(かけがわしこう)』には、次のようなおもしろい話もある。

 此石夜は無が如く、道行人暗夜燈なしと云へとも衝當(つきあた)ること無し、故に夜無石なりと、(後略)

 つまり、夜に「泣く」のではなく、夜に「無き」がごとき石で、「夜無石」だというのである。当時の浮世絵などを見ると大きな丸石が、従来の真ん中にどっかりと座り、昼間の明るいときでも旅人の邪魔になったことがうかがい知れるのだが、夜の暗闇の中では、不思議とこの石にぶつかる者がなかった。その奇妙な話が「夜無石」を生み出したのである。

夜泣き石と子育て飴

 子どもが飴によって育てられたという話を、挙げてみよう。

 小夜の中山近くに住む飴屋の主人のところに、ある夜をさかいに、毎夜決まった時間に、若い女が水飴をひとつだけ買いに来るようになった。そんなことがいく晩か続いた。そのことを不思議に思った主人は、ある晩、飴を買い求めにきた女のあとを気づかれぬようついていくことにした。人気のない峠の大きな丸石のところまで来ると、女は闇に包まれすうっと消えてしまった。
 どこからともなく赤子の泣き声が聞こえる。主人の背中にぞーっと、冷水を浴びせられたように寒気がはしった。気味が悪いと思いながら、あたりを見回すと、どうやら赤子の泣き声は大きな丸石の方から聞こえてくる。勇気を出しその石の近くへ寄ってみると、まわりには、水飴の棒が散乱していた。そしてそこには、飴を買いに来る女の着物に包まれた、赤ん坊がいたのである。
 主人は「この子のために女は、幽霊になってまでも飴を買いにきたのだな」と悟ったということである。この地で若い妊婦が殺されて二十日あまりの日が過ぎた夜のことであった。
 この水飴は、「子育て飴」という名でこの地の名物となったということである。

 このような「子育て幽霊」の類話は全国各地に見られる。静岡県内でも、湖西(こさい)市鷲津にある名刹(めいさつ)・本興寺の十七代住職、石から生まれた名僧と名高い日観上人(につかんしょうにん)の出生譚(しゅっせいたん)も、これに類似している。興味深いのは、この日観上人(につかんしょうにん)が本興寺住職として着任したのは享保(きょうほう)六年(一七二一年)のことであり、前出の『煙霞綺談(えんかきだん)』に「佐夜の中山夜啼き石といひはやらせしは、享保の中比(なかごろ)よりの事なり」とあるから、この日観上人(につかんしょうにん)の伝説が夜泣き石の伝説と、なんらかの関連性を持つのではないかと考えられることである。
 余談であるが、近年この日観上人(につかんしょうにん)の伝説にあやかり、鷲津でも「子育て飴」を売ろうという計画があったそうである。また土地の古老に聞いた話では「この鷲津が子育ての飴の本家で、小夜の中山の子育て飴は亜流」ともいう。
 さて、この子育て飴の話は、どうも名物の飴を売りだすため、という色彩が濃いのである。また、子供を助けたのは幽霊になった母親ではなく、小夜(さよ)の中山の久延寺(きゅうえんじ)の僧であったり、観音菩薩(かんのんぼさつ)の化身(けしん)であったという話も見られる。これは『掛川誌稿(かけがわしこう)』に「此寺昔は定れる住僧少し、故に其歴世等も詳ならず」とあるから、住僧も一定せず、あるいは縁起(えんぎ)もはっきりしなかった久延寺(きゅうえんじ)で、この話を利用して脚色したのかもしれない。
 話だけでなく「夜泣き石」そのものが商売に利用されたこともある。
 明治十四年(一八八一年)の東京で行われた「勧業博覧会」と昭和十一年(一九三六年)の「静岡物産紹介会」に、この石を出品したというのがそれである。詳しいことは次項の「夜泣き石は、なぜ二つあるのか?」を見ていただきたい。
第2回内国勧業博覧会場図(東京都立中央図書館蔵)

教訓的な仇討(あだう)ち話

 また助けられた子供が成長したのちに、母親の仇(かたき)を討(う)つ話は、教訓的な色合いが濃く、立身出世して親の恩に報いるのを善(よ)しとする考えが背景となって生まれたのであろう。
 例えは、太平洋戦争直前の昭和十六年(一九四一年)八月五日の「東京朝日新聞」静岡版に、次のような記事がある。

 「世は超非常時人的資源確保のため生めよ育てよと進んで行く、ここ金谷町から程近い東海道の古跡として余りにも知られてゐる小夜の中山夜泣石、今日このごろ焼け付く様な暑さにも拘らず子供をお護り下さい丈夫に育てて下さいと御祈願に詣でる若い婦人の絶え間がない、付近の子供たちは同所出身で臺灣總督府(たいわんそうとくふ)文教局長杉本良氏夜泣石の傳説(でんせつ)教化のため建設した『子供の家』へ集り子育て飴をシャブリながら朝な夕な夜泣石にぬかづき丈夫にして下さいと願ひを掛けている」
 (『遠江の伝説』小山枯柴著)

 とあり、道徳的な心の教育にも利用されていたことがわかる。

心から心へ伝わる母の愛

 このように「夜泣き石」の伝説には、さまざまな要素とバリエーションがあるが、ここで各話に書かれている事項を整理してみると、次のような要素から構成されていることがわかる。

①【事件発端】
 峠で妊婦殺害事件が起きた。

②【名跡の存在】
 この地に「夜泣き」に関連する「松」または「石」があった。

③【名物、寺社縁起に関すること】
 生まれ出た子供が、飴によって育てられた。

④【勧善懲悪、読本的な物語】
 その子供が成長し、母の仇を討つ。

 この事件が人々の口から口へ伝わる要因のひとつとして挙げられるのが、①の「峠で妊婦殺害事件が起きた」である。現代でも、さまざまな猟奇的かつショッキングな事件が報道されるが、これは当時の人々の心に残るものだったに違いない。まして危険と不安のつきまとう旅人においては、より深く心に刻まれたのではないだろうか。
 しかし、このことだけでは長く歴史に残る伝説とはならなかっただろう。というのは、このような陰惨な話は、当初こそもの珍しさや興味本位から、世間に素早く伝わるものの、忌まわしい記憶としてはできるだけ早く消し去ってしまいたいからである。
 ②③④についても、一見つながりがないように思われるが、子供のことを思う母親の愛情をキーワードとして読むとくことができる。
 ②の「夜泣き松」の伝説は、夜中にむずがり泣く子供が泣きやむようにと母親のせつない気持ちの表れであろうし、③の水飴や④の立身出世、忠義孝行にも、子の成長を願う親の気持ちを汲みとることができる。

 こう考えると、この「夜泣き石」の伝説が、人々の心に強く訴えるものは、殺された母親が死してもなお、わが子を救うため「石」にその思いを託したという事柄である。子供を思う母親の深い愛情に皆が心をうたれ、感動したために、「夜泣き石」の伝説は現在までの長い時を経て語り継がれてきたのである。
 「石」は、今、黙して多くを語ることはない。しかし、この「母の愛」の伝説は「石」を通していつまでも長く語り続けられてほしいものである。

夜泣き石はなぜ二つあるか?

 広重の浮世絵「日坂(にっさか)」に描かれている有名な夜泣き石。その石が、現在では、二つある。一つは、旧東海道の峠の久延寺(きゅうえんじ)の境内にあり、もう一つは現在の国道一号沿いの茶店・小泉屋の上にある。いったい、どちらが本物なのだろう。
 浮世絵にあるとおり、江戸時代には、夜泣き石は峠の道の真ん中にあった。しかし、明治元年に明治天皇が東幸(とうこう)するにあたって畏(おそ)れ多いとして、沓掛(くつかけ)の袴田(はかまだ)清八という人の茶店のところに運んだ。それを久延寺(きゅうえんじ)の住職が、この石をもとに収入を得ようと、寺の境内に移したのである。このとき住職は、この石はもともと日坂(にっさか)地区に属していたということで日坂(にっさか)小学校に施設費補助として二百円、それまで石を預かっていた袴田(はかまだ)氏に補償金として五十円を渡したのだが、じつはこのお金は、杉本権蔵(すぎもとごんぞう)氏から夜泣き石を担保に借りたものであった。そしてこのとき、保証人を小泉忠六郎氏、返済期限を明治十八年までとしたのである。このことがのちに、裁判沙汰となって、夜泣き石が二ヵ所に現れる原因となる。

 そのいきさつは次のようなものであった。
 一度寺に安置された夜泣き石は、明治十四年、東京・浅草で行われた「勧業博覧会」に出品されることとなった。出開帳して利益を得ようとしたのである。
 榛原町川崎港から船で東京へ運んだところが、すでに東京では、ハリボテでつくった偽(にせ)の夜泣き石が出品されていた。その中に子供を入れ、その子を泣かせて評判を取って大儲けをしていたのである。後から本物の夜泣き石が到着したときには、その石がすこしも泣かないため、かえって偽物(にせもの)呼ばわりをされ、まったく不評に終わった。
 大失敗のまま、石は焼津(やいづ)港まで持ち帰ったものの、お寺まで運ぶ費用がなく、そのまま半年は雨ざらしになっていた。やっとつてを得て、中山新道(なかやましんどう)からお寺まで運ぼうとしたが、急坂のために運びきれず、しかたなく峠の下の小泉屋の庭先に置くとこになった。
 その後、石を峠の上の久延寺(きゅうえんじ)まで上げるのは大変だから、寺を下の中山新道(なかやましんどう)のところまで移転しようという案もあったが、この計画は実現せず、そうこうするうちに借金も返せないままに月日がたち、返済期限である明治十八年になってしまい、裁判となったのである。
小泉屋のところにあった夜泣き石(昭和7年以前)

 裁判の結果、寺側は敗訴し、夜泣き石は杉本氏の所有ということになった。杉本氏の保証人は小泉屋であることから、石はそのまま小泉屋の横に置かれることになった。これが現在、小泉屋にある昔からのものである。弘法大使(こうぼうだいし)が指で書いたという「南無阿弥陀(なむあみだ)」の文字が彫ってある。
 さて、この夜泣き石が、もう一度、展覧会に出品されたことがあった。昭和十一年六月、東京・銀座の松坂屋で開催された「静岡物産紹介会」である。静岡県の要請によったもので、このときは人気を博したため、松坂屋が日本橋の橋杭(はしぐい)に模(も)した石灯籠(いしどうろう)を奉納した。この石灯籠(いしどうろう)は今も夜泣き石の前に立っている。
 このように夜泣き石を展覧会に出品すると、金儲けになると考えられたためか、この石を巡って再び裁判が起こった。昭和十二年十二月二十四日付の「東京日日新聞」によると、次のような記事が報道されている。
 夜泣き石の所有権確認訴訟の判決が出された。久延寺(きゅうえんじ)が杉本久蔵氏の許可を得たといって夜泣き石を寺へ運んでしまったので、息子の杉本良氏と小泉屋が所有権はこちらにあるといって、今年の二月に訴えを起こしたものである。この訴訟の間に日坂(にっさか)村の村長は、石は村のものであるといい出して複雑化していた。けっきょく、裁判所では所有権には触れず、

一、夜泣き石を史蹟名勝記念物に指定して保存に力を入れ、公共的性格をもたせること。
二、杉本氏親子と日坂村、それに小泉屋が協力して保存会をつくり、保存に努力すること。

 という名裁きによってことをおさめたものであった。これによって、夜泣き石は久延寺(きゅうえんじ)の方へは移ることなく、小泉屋の横にそれまで通りにおさまったようである。
 さて、現在、久延寺(きゅうえんじ)の境内にある夜泣き石はというと、これは本物と同じ形をしているが、昭和三十年代に丸石の段という場所(江戸時代に夜泣き石があったところ)で見つけたもので、峠の人たちが牛車に乗せて寺まで運んできたものである。

  • 久延寺の夜泣き石
  • 現在小泉屋の裏の小高い山にある本物の夜泣き石