ふじあざみ 第40号(1)
ふじあざみ タイトル
 

富士山 最後の大噴火
宝永の大噴火
 富士山噴火の歴史の中で最後の大噴火は、宝永四年(1707年)、旧暦の11月23日、今から約300年前のことです。この噴火を 最後に富士山は長い眠りに入っていますが、この「宝永の噴火」には、着目すべき点が多々あります。なぜなら、有史以来最大級の噴火で、かつこれほど詳細な 記録が残っている噴火は他にはないからです。それだけに、現代に噴火した場合の参考となる貴重な資料となり、これまでの研究によって噴火の現象や被災実態 についてかなり細かな部分まで明らかにされてきました。旧暦11月23日の正午ごろに南東斜面の五合目付近に大きな爆裂火口ができ、恐ろしい姿の噴煙とと もに、夜間は赤熱した火柱が確認できたようです。この噴煙と火柱は、旧暦12月8日まで、16日間にわたって確認できたとされています。火口の名前は元号 をとって、宝永火口と呼ばれています。文献によると、旧暦の12月9日の未明にドカンと鳴ったのを最後に、宝永噴火のすべてが終了したようです。この旧暦 12月9日は、新暦にすると1708年の1月1日でした。
 富士山宝永噴火による被害は直接的なものから二次的、三次的被害まで、時とともに進行しました。噴火口に近い須走では、大量の噴出物が容赦なく降り注 ぎ、火の玉が落下して家が焼け落ちたり、噴出物の重みで倒壊した家屋も多く、人々は次々と降ってくる噴石を避けて避難したといいます。
 噴出物は、農業によって暮らしを立てていた山麓の田畑、用水、野山を覆いつくし、作物は全滅、翌年の作付けも不可能となり、村人の生活基盤そのものが破 壊され、直接的な被害よりも長く深刻な影響を及ぼしました。さらに、積もった噴出物は川に流出し、下流域の村でたびたび洪水が発生する原因になりました。 蓄えが十分でない人々は噴火直後からすぐ飢えに苦しみ、噴出物を取り除くことも容易ではありませんでした。
 このように、富士山の噴火はそれまでの村の姿、暮らしを変え、人々の心に大きな影を落としたのです。富士山が火山である以上、今後も噴火する可能性はあ ります。私達は、先人が残したこれらの事例を現代に有益に活かせるよう、万全の準備をしていかなければならないことは言うまでもありません。
〈参考文献:静岡大学教授 小山真人 編 「富士を知る」〉

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