山麓の祭り −伝統の祭をたずねて−
河口の稚児舞 (富士河口湖町) 「おちいさん」の鈴の音もさわやかに
河口の稚児舞は、富士河口湖町(旧河口湖町)に伝わる民俗芸能で、山梨県の無形民俗文化財に指定されています。伝承によると、富士山信仰が盛んであった江戸時代に登山に先立って奉納されたと伝えられており、祭神の木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)が孫である鵜葺草葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)のもとを訪れる様子を表現したものとされています。
河口浅間神社にて毎年7月28日に行われる太々御神楽祭では、神輿が出立する前に「御幣の舞」「扇の舞」「剣の舞」「八方の舞」「宮めぐりの舞」の五番の舞を、「おちいさん」と呼ばれる少女たちが一日かけて舞い納めます。また、毎年4月25日に行われる例祭である孫見祭りの際にも、五番の舞のうち前三番が奉納されます。
踊り継がれる稚児の舞
踊り継がれる稚児の舞
●吉田の火祭り (富士吉田市) ゆく夏のロマン、夜空をこがす大タイマツ
 8月26日27日は北口本宮富士浅間神社鎮火大祭です。とくに26日には日本三奇祭の一つ、火祭が行われます。金鳥居から本宮に通じる道に高さ3mもある大タイマツが立ち並び、家々の前にも井桁に組んだ薪が積み上げられ準備は完了します。夕方になり浅間神社と諏訪神社の御神霊が乗った二つの神輿が、御旅所に到着すると一斉にタイマツが点火されます。最初火は小さく燃えながらだんだん火勢を増し、火の粉が夜空に舞い上がっていきます。これに呼応するかのように、吉田登山道の山小屋でもタイマツに点火、吉田の町は火の祭のクライマックスに達します。
 火祭りの起源は、浅間神社の御祭神、
木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)が産屋で火に包まれながら三皇子を安産したという伝承によって始まるといわれ、現在では富士山閉山を告げる祭りとして知られています。
吉田の火祭りの木版画
吉田の火祭り(木版画富士吉田市郷土館)
吉田の火祭り
火祭りが来ると、もうお山じまい
吉田の火祭り
ゆく夏を惜しむ吉田の火祭り
●浅間大社流鏑馬祭 (富士宮市) 駆ける、射るの勇壮華麗な鎌倉絵巻
社伝によると、建久4年(1193)5月、源頼朝が富士裾野で巻狩りを行ったとき、武将たちを率いて浅間大社に詣で、流鏑馬を奉納したことに始まるとされています。
 5月5日、端午の節句が本祭にあたり、クライマックスになります。数々の神事の後、槍武者、弓武者、鎧武者、神馬、神職、そして5人の射手たちが流鏑馬入りと称して町内を練り歩きます。
 歓声に迎えられ流鏑馬に入った後、馬改め、馬場見せ、間行事などが作法どうりに進みます。つぎに一の射手による「行」が行われ準備は完了です。いよいよ「本乗り」に移り、5人の射手が一列になって150mの馬場を東から西へ駆け抜けながら、的持ち役が掛けた二つの的を次々と当てていきます。
 45cm四方の板的に、鏑矢が命中すると観客たちからドッと拍手が起こり祭りも最高潮に達します。鎌倉武士の狩装束が5月の風に打ちふるえる華麗な絵巻を見る思いがします。


浅間大社流鏑馬祭り
浅間大社流鏑馬祭
●冨士御室浅間神社流鏑馬祭 (富士河口湖町)
春、4月29日。桜も満開となる頃、富士河口湖町(旧勝山村)の冨士御室浅間神社では、甲州騎馬軍団を思わせる武田流の流鏑馬祭りが行われます。平安末期、源義家、義光兄弟が奥州清原一族の内紛に介入し攻め滅ぼした、この勝利のお礼のために奉納されたのが始まりとされています。