明治29年洪水で大垣城水没
 明治29年(1896年)7月21日の洪水は、
岐阜県下全域に大被害を及ぼしました。木曽三川沿岸では、堤防破堤が生じなかったのは、加納輪中・森部輪中・牧輪中の三輪中のみでした。最大の湛水深さは14尺(4.2m)にも及び、大垣城天守の石垣も水没しました。
 この災害復旧の真っ直中の大垣輪中は、9月に再び大洪水に見舞われました。9月7日午前5時に水門川が破堤して今村輪中に流れ込み、8日午前3時には、杭瀬川筋の多芸島で破堤して、大垣輪中は完全に水没しました。湛水位は7月よりも市街地において3尺7寸(約1.1m)も高く、大垣城も再び水没しました。大垣城の石垣には、金森吉次郎の手により「明治29年大洪水点」が刻まれ、標識が建てられています。
 湛水した大垣輪中の排水のため、7月、9月とも乙澪(みよ)切りが行われました。乙澪切とは、洪水氾濫により生じた湛水を排水するため堤防を開削する行為を云いますが、7月、9月とも大垣輪中最南端の「横曽根」地先で行なわれました。


大垣城


石垣に刻まれた水位


所在地 : 岐阜県大垣市郭町

空中写真 閉じる