水門川舟運
 大垣市の経済を昭和初期まで支えたのが船町です。美濃国は海に面していませんが、木曽三川を利用した舟運技術が発達していたうえに、大垣は城下町であり、東海道と中山道を結ぶ美濃路が経由し、近くには中山道赤坂宿もあり経済活動が盛んでした。また、この地は北陸や近江方面へと街道が伸び、南は水路で桑名や名古屋とつながっていて物貨の中継地点としての役割を担うなど、地理的な条件も揃っていました。
 慶長6年(1601年)木村与次右衛門が大垣伊勢町から移住し、慶長末年に船問屋を開きました。大垣から桑名間の輸送には、城下を流れる水門川が利用されていましたが、元和6年(1620年)、杭瀬川から大垣城下に水路・久瀬川を掘り、水路網が整備されました。揖斐川の増水による城下への逆水を防ぐため寛永13年(1636年門樋が落合口に造られ、さらに承応元年(1652年)この門樋が大規模に改造されると船町はさらに発展しました。
  この門樋跡は昔の面影もありませんが、その上流に架設されている「水門橋」にその名を残しています。
藩は年貢米を桑名で売り払う役割を担う、大垣城下と桑名をむすぶ水路と船町の舟運の便を図り、
町はますます発展していきました。 明治に入り鉄道が開通しても運賃の安い舟運はまだまだ活躍していました。しかし、昭和に入ってからは米が統制品となり輸送が一手に行なわれるようになっていたため、舟運の需要は減っていき、戦後、トラックによる流通が主役になり舟運は徐々に衰退していきました。


水門川



水門川と燈台


所在地 :  岐阜県大垣市船町

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